ブッダとソクラテス(1)

 ソクラテスが「物事を知っている」者に対して容赦なく議論を吹っかけ、その智者と取り巻きを青ざめさせたのは、何も恥をかかせたいわけではなかった。

 彼は、ただ真実を求めて、またそれに近づき、真理を極めたい人であったから、そのために対話を欲し言葉を駆使していたのだ。

 預言者に、「ソクラテス以外に知恵をもつ人はいない」と言われたのを人づてに聞いて、それを確かめるために、様々な形で智を表わす人の所に行き、その確認をしたい意思も働いた。

 その頃に買った怨みのために、多くの裁判員が死刑に票を投じた、とソクラテス本人がその「弁明」で述べている。

 彼ほどの聡明な人間にとって、当時のソフィスト(出世コースを歩みたい若者に弁論術を教える教師のような職業)になるのは容易なことだったと思う。
 だが、彼はそうしなかった。

 現代で言うところの学歴、それに従う富、名声というものよりも、人間としての「徳」「正しさ」「真理」に、ソクラテスは俄然重点を置いていたからのように思う。

 この点、ブッダとその立ち位置を同じくしている。
 物事の本質、そこに全ての真のものがあり、それを見極めることに、まず人間としての幸の萌芽があると見なしていたのだ。

 シッダールタは、そのまま王家を引き継げば裕福な生活ができたはずなのに、子どもが産まれるとさっさと出家し、わざわざ苦しい修行の旅に出てしまった。
 だが、その6年の苦行の後、「こんな修行には意味がない」と言い、「知恵をはたらかせる」ことにそのエネルギーの矛先を方向転換した。

 ソクラテスも3人目の子どもがまだ赤ン坊であったのに、そして友人たちが金銭を請負い、彼を死なせない道を現実に示したにも関わらず、自分にとっての真理のために毒人参のジュースを飲んだ。

 ギリシャの哲学者もインドの宗教家も、ただ自分にとっての真実のみに固執したのではない。
 ブッダはひたすらに「なぜ人間に苦があるのか」を希求した人であったし、ソクラテスはひたすらに「人間にとっての真実・正義」を求め、それを生命よりも大切なものであるとした。

 ふたりとも、「人間にとって」が大前提であり、その執着は自己というものを失くすに等しいほどに、「人間」に向かっていたのだと思われる。