教育の目的とは何か? 戦争時代は、国のために尽くす、死ぬということ、そういう人間になれというものではなかったか。
何事もソツなくこなす人間であるように、どの教科もまんべんなく平均点以上を取るように、「共通一次試験」(!)はできたという話もある。
要するに、「社会に有益な、社会が必要とする人間」をつくるのが、教育の実相のように思われる。
モンテーニュの考えるところによれば、人間は生まれたと同時に、その人固有の思想も生まれるのだと言っている。
そして人間という個体、その個々に産まれ備わった性質というのは、教育によって根本的に変えられ得ないものだ、と考えている。
「大人が子どもに与え得る、最もよい教育は」と彼は言う、「小さな頃から旅をさせることだ」と。
この世にはいろんな人があり、風習があり、その土地土地によって種々雑多な人間がいるということを、知るということ。
いろんな国を巡ればいいが、とにかく大切なのは「いろんな人間の存在」をその空気、地面、現実によって体感、経験することだという。
これは、長く生きた人間が、まだ長く生きていない人間に対し、もし「教育」という機会を与え得るならば、これ以上にないものだと思う。
宗教戦争の内乱の真っ只中を生きたモンテーニュは、人と人がいがみ合う根底に、「異質な者を認めない」頑迷さがあることを、認めざるを得なかっただろう。
人間として生まれて来た以上、精神的にも身体的にも平和であるということを、彼は口にしないけれども、善きものと考えていたに違いなく思われる。
さしあたって、彼自身がそうあろうとした。
そうして彼は、「自分自身の以下でも以上でもなく、中道中庸を行くこと」に、その手段を見出したように思う。
世界は無常であり、自分自身も無常であることを、彼は知っていた。
それをじっと彼は見続けて、きっと彼らしい、生きざまに相応しい平和的な死に方をしたのではなかったか。
思想、考え方、信心というのは、そればかりに染まっては自分を失う。
宗教によって、どれだけ自己を棚上げにし、他教を排斥しようとした人間の多かったことか。
あくまでも地上に立っているのは自己の足である。
オトナであれコドモであれ、いろんな人間があること、思考があるということ。
世界があるということ── それを知ることは、その足をより小回りの利く、柔軟で闊達な足に育み得るに違いない。と、信じたい。