初めて、一生懸命、言葉を書いたのは、文通相手の女の子に向けてだった。
読書感想文も、国語の作文も、面白かったとは思えない。たいして記憶に残っていないからだ。
言葉を書いていて、ほんとうに楽しく感じられたのは、あの「文通」が初体験だったと思う。
相手になってくれた人も、楽しんで私の手紙を読んでくれていたようだった。
そう、相手を楽しませようとして、私は書いていたのだ。すると自分も、なんだか楽しかったのだ。
手紙だから、投函して相手に着くまで2、3日の時間を要する。
1週間に1、2回のペースで、ふたり、相手の手紙を読んでいた。
そして一体何を書いていたのか、何を書かれていたのか、よく思い出せない。
こんなことで悩んでいますとか、好きなミュージシャンのこと、趣味、学校、友達、家庭での身近な出来事、それについて思うこと…だったろう。
おたがいに、話題を振り合って、返事を書き易いように配慮もし合っていた。
それにしても、読んでくれる相手がいて、その人にせっせと手紙を書くというのは、貴重な体験だった。
便箋に、3枚、4枚と書き、楽しんでくれるかな、変な印象を抱かれないかなと不安になったりしながら、封をし、住所を書き、ポストへ入れる。
「見えない」相手と、言葉だけで繋がった、初めての経験。どんな人なのか、想像をふくらませて、やりとりをしていた。
交換日記というのも、不思議なものだった。
彼女も私も、ひとりでいる時間に相手のことが忘れられないから、相手に向けて書いていたと思う。
ひとりの時、「こんなことをしている、考えている」ということを書いて、結局「愛してる」が、文末に必ず来ることになる。
相手の時間を束縛し合うようなものだったかもしれない。
でも、それがないと、おたがいに足りなかったのだ。
文通は、顔も知らない相手だからこそ、「自分はこんな人間ですよ」とおたがいに知らせる必要があった。
1通だけで分かり合えるはずもなく(大体わかるが)、やりとりを重ねて、だんだんにおたがいを知っていく。
「私」を知らせるために書くということは、客観的に見る作業に繋がって、相手に向かいながら自分にも向かう。
「書く」という行為の、微妙なベクトルが交差する感じを、私は文通を通して知ったと思う。
交換日記は、すでに知り尽くしているような人(実は何も知っていないにしても)に向けて書くのだから、そんな一生懸命書くこともないはずだった。
それでも、相手の言葉が、おたがいに必要だったのは、恣意としかいいようがない。
おたがいのわがままを、おたがいに求め合っていた。
だからわがままにもならなかった。
それが恋というものだったのか…