昔々のずーっと昔、男と女はふたりでひとつの一体だった。それが神(!)の怒りにふれ、二体に引き離されてしまった。
で、以来男と女はかつて一体であったところの身体を求め合う、という説を、中学の時に恋人が教えてくれた。
たしかに。とも思えるけれど、全然そう思えない。とも思える。
本能的なもの、わけの解らないものには、どうとでも理由がつけられるからだ。
しかし恋愛の初期の期間には、特別な、何か心トキメク、「うまれて初めてこんなになる」気持ちに、身も心もいっぱいになるものだった。
恋愛には、初期・中期・後期と、私の場合、あった。それぞれ、別々のひととそうなったのだが、これは年齢を重ねなければできないことだった。
だが、どんな年齢であれ、恋をした時、夢を見るようであった。妄想である。
想像、といえば聞こえはいいが、特に特別な関係でもないのにその相手のことをあれこれ想うのは、やはり妄想だと思う。
そして妄想する時、たしかに自分は相手を愛している、という気になるのだった。
今は何でもない関係だけど、そのうち何となく惹かれ合って、意気投合して、しまいには結婚して、こんなような生活を送るのではないか、と。
そして妄想するうちに、その時間が長ければ長いほど、相手が自分の中で大きな存在になっている。
「私のつくった相手」である。だが、相手は相手としてチャンと存在している。
で、「私の中の相手」が、現実に会って、「私の中の相手」と全然違う態度をとったりすると、「私」は勝手に傷ついたりするわけである。
恋をすると、私はよく傷ついた。そして、もう恋なんかしない、と決心してもダメである。
やはり誰かを好きになる。気になる存在が現れる。結局、人を探していたのだと思う。
和気あいあいと、笑い合って、いろんな話をしてうなずき合い(妄想の中ではほとんど相手に否定されない)、「自分はひとりではない」ことを自分に知らせたかったのだと思う。
つまり、孤独の意識が強ければ強いほど、人を求めていたのだと思う。どんなに自分をごまかそうとしても、最後のところではひとりではイヤで、誰かを求めていたのだと思う。
「求めよ、さらば与えん」という言葉もあるけれど、たしかに与えられたような気はするけれど、元をたどれば求めていた自分がいて、偶然にその相手が現れただけの話である。
その偶然をつくったのが「神」(!)だとしても、私に分かるのは神ではなく、欲を持っていたここにいる自分であり、そこに存在している相手であった。
「ひとりでいる時間」が、恋を育てるのは、つきあってからも、つきあう以前も変わらない。
ただ、困るのは、その恋が成就した後、時間が経つと、徐々に薄らいでいくような気になることだ。
あれほど情熱的だったのが、妙に冷静になっていたりする。好きであることは変わらないのに、何か冷めた気持ちになっていたりする。
自分はもう、相手を愛していないのではないか、と錯覚する。
だが、それは当然のことなのだ。恋は、心がするのだし、その心を元に妄想し、相手に接し、失望したり満たされたりするけれども、それらは何としても「時間」の上に成り立っている。そして時が流れている以上、「あの時の気持ちのまま」でいられるわけがないのだ。
そこでまた諍い事が生じたりする。「あなたは変わった、昔のあなたはこうだった」とか。
だが、それは時間のせいであって、あなたのせいではないのだ。
浅瀬もあれば深瀬もある川のようなもので、常に流れの中にある限り、避けようがない。
「あなた」も「私」も一定の窪みに淀むことなく変わっていく。その身、その心も。
そして、それを許せるようになって、初めて恋が、愛に変わる。
さらにおたがいに好きである気持ちが、地下水脈のようにふたりに流れているならば、それがほんとうに愛し合う、ほんものの愛のかたちのように思う。