セルジュ・ゲーンズブールの「ジュテーム…」という映画で、主人公は、「一緒にイクこと。それが愛だ。」と言っていた。
一緒にイクこと。これが、愛だというのだ。
それは、様々な意味を含んでいる。
一緒にイクとは、どういうことか?
どのような意味であれ、一緒にイクことは、難しい、滅多にないと思う。片方、どちらかがイクことは、よくある。
それは窮極的には、様々な場面で、相手の感じへ、自分が同化することではないかと思える。
そこに、違和感の入り込むスキもない。
すると、とてもナチュラルに、一緒にどこかへイクことになると思える。
それは、その道程において、ある種の信心のようでもある。自分の中の想像を信じること…「感じ」を信じること…。
だが、それは何も、いわゆるセックスに関した話に限った話ではない、と、いつの頃からか、思うようになった。
同じ1枚の絵を見て感じるふたりの心根、同じご飯を口に運んで感じる食感、同じ音楽を聴いて感じる昂揚。
これらのすべてが、性的な次元に属するように思える。性の干渉そのものではない。でも、性行為そのものが、欲望という性的根源に正体を持つのであるなら、その行為そのものも、単なるその1つにすぎない。
いわゆるセックスの理想、それを行なう両者の理想的な到達点が「一緒にイク」ことであるとするなら、それは何も、その行為に限定されなくても、同等の、あるいはもっとだいじな「感じ」、「共有体験」、そういうものがこの世にはたくさん在るように思える。(そしてそれらを感じることのできる、ひとりひとりの自己が在る)
そのひとりひとりの自己が、根源的なところでムリなく、自然のように感じ合えること。それがゲーンズブールの言った、「一緒に…」の、ほんとうの意味だと思う。