(29)セックス考

 セルジュ・ゲーンズブールの「ジュテーム…」という映画で、主人公は、「一緒にイクこと。それが愛だ。」と言っていた。
 一緒にイクこと。これが、愛だというのだ。
 それは、様々な意味を含んでいる。

 一緒にイクとは、どういうことか?
 どのような意味であれ、一緒にイクことは、難しい、滅多にないと思う。片方、どちらかがイクことは、よくある。

 それは窮極的には、様々な場面で、相手の感じへ、自分が同化することではないかと思える。
 そこに、違和感の入り込むスキもない。

 すると、とてもナチュラルに、一緒にどこかへイクことになると思える。
 それは、その道程において、ある種の信心のようでもある。自分の中の想像を信じること…「感じ」を信じること…。

 だが、それは何も、いわゆるセックスに関した話に限った話ではない、と、いつの頃からか、思うようになった。
 同じ1枚の絵を見て感じるふたりの心根、同じご飯を口に運んで感じる食感、同じ音楽を聴いて感じる昂揚。

 これらのすべてが、性的な次元に属するように思える。性の干渉そのものではない。でも、性行為そのものが、欲望という性的根源に正体を持つのであるなら、その行為そのものも、単なるその1つにすぎない。

 いわゆるセックスの理想、それを行なう両者の理想的な到達点が「一緒にイク」ことであるとするなら、それは何も、その行為に限定されなくても、同等の、あるいはもっとだいじな「感じ」、「共有体験」、そういうものがこの世にはたくさん在るように思える。(そしてそれらを感じることのできる、ひとりひとりの自己が在る)

 そのひとりひとりの自己が、根源的なところでムリなく、自然のように感じ合えること。それがゲーンズブールの言った、「一緒に…」の、ほんとうの意味だと思う。