「相田君、猫飼わない?」職場の上司が聞いてきた。
「あ、飼いたいです」私が答えていた。
上司の奥さんの連れ子の息子さん夫妻の飼っている猫に、子猫が産まれたということだった。
私は、その猫に呼ばれている感じがした。実物はもちろん、写真も見ていなかった。
聞いたのは、オッドアイ(片目が茶色、片目が青色)で、真っ白なメス猫、というだけだった。
「出会い系」で知り合った家人と、一緒に暮らし始めて2年目の夏でもあった。
情熱的だった恋愛初期の高潮も、ひとしきり引いて、いささか倦怠めいた気配が漂っていた頃だったから、ふたりの間に「もうひとり」、点と点の中間に、もうひとつの点を求めていたフシもあった。
家人は犬を欲しがったが、私は猫を飼いたかった。猫とのつきあい方を学びたかったのだ。
犬も可愛いけれど、人間に、あまりに従順すぎる気がした。
猫は、しっかり自我というものを持っていて、自分を第一に考え、飼い主のことにはさして重きを置かず、犬と比べてドライな関係を築けるように思えた。(それに、犬は吠える。近所迷惑を私は非常に恐れる小心者だった)
私には「すぎる」傾向があって、こと人間関係においては、悩ましく考え「すぎる」癖があった。
それというのも、人との関係に、重きを置きすぎるからだと考えていた。
猫との、ほどよい距離を保った関係。犬のようにべたべたせず、おたがいに自分を第一に考え、それでも一つ屋根の下、仲良く暮らし、認め合って生きて行けるような関係…… 猫と一緒に暮らすことで、私は人間関係における処世術のようなものを体得したい。
そんな思いが、いちばん強かったと思う。
ジャスコの駐車場で上司と待ち合わせ、キャリーに入った子猫を受け取った。
家に歩いて戻るまで、猫はずっと大きな声で鳴き続けた。「これから猫を飼いますよー!」と、近所中にふれまわっていたようなものだった。
やっと家に着いて、居間に置く。家人が、「あら可愛い!」と微笑んだ。
猫は、「ここはどこか」というふうに、キャリーの扉から少しだけ顔を出し、匂いを嗅いだり、天井を見たりしていた。
〈 新しい飼い主と部屋に慣れるまで、猫はそっとしておくのが鉄則です 〉
「猫の飼い方入門」にそう書いてあったので、私と家人は、猫のことがとても気になりながら、ぎこちなく気にしないふりを続けた。
猫はキャリーから出ようとせず、水もご飯も口にしなかった。
相変わらず不審げに周囲を見回し、体を舐め、離れた場所に座る私たちををじっと見つめたりしていた。
そして伏せの恰好をしたまま、目をつむってウトウトし始めると、前足の間に鼻をおとして寝てしまった。
私たちはそれぞれ風呂に入り、緊張を続けながらそれぞれの布団に入った。寝室は、猫のいる居間と続き間になっている和室だった。
ベランダの掃き出し窓から、月の光が、カーテンの隙間から入ってくる。
居間の猫のことが気になっていると、月の光も気になってくる。
お月さんが、じっと、こっちを覗き見している…
不意に、「ニャアニャア」と大きな声がして、その声がゆっくり移動している。
「出て来た!」私は隣りの布団にいる家人に、小声で叫んだ。
彼女はパッチリ眼を見開き、こくりとうなずき、「でも声が大きい…」小声で言った。もう夜の11時も過ぎている。うん、大きいなあ、と私も言った。
と、突然、風呂場のほうから、うんご~、うんご~と声が響いてきた。
風呂場の洗濯機の手前に、猫用トイレを置いている。
そして便臭が漂ってきた。私は、絶望的な気分になった。家人は呆然と口をあけた。
それからニャアニャア言う声は移動を始め、我々の寝室に入って来た。
猫に買った物で、一番高価だった「キャットタワー」が壁際にある。
幅は大人の肩幅ほどだが、高さは天井まで到達している、猫のジャングルジムのようなものだ。
このタワーに登る音が聞こえると、並んでいる2棹のタンスの上へ乗った音がした。
カーテンから透けてくる月の光に照らされて、私と家人は、そのとき初めて猫の全身を見た。
ピーンと立った、長い尻尾。横に長い胴体。
それは真っ白な手つかずの雪のようで、何か神々しく、神秘的に輝いていた。
ニャアニャア鳴き続けながら、猫は移動を続けている。
(ああ、まあ、慣れてくれたんだ)と思おうとしたが、やたらに声が大きい。
いくら一軒家といえども、近隣近所にも響きそうで、私は一瞬猫を飼ったことを後悔した。ご近所に、迷惑だけは掛けたくない。
だが、猫に刺激を与えないよう、身動き一つせず、布団の上に固まり続けていると、猫がタンスの上からカーテンレールの上へ飛び移ったのが見えた。
そしてその細いレールの上を、ニャアニャア言いながら歩き始めた。
落ちやしないかハラハラしたが、レールの先端まで進むと、器用に身体をくねらせてUターンし、そして来た道を戻り、タンスへ飛び下り、キャットタワーを飛び下りて、再び居間へ戻って行った。
この間、ずっと猫は、怒号のような大きな声で鳴き続けていた。