(29)女と男

「私は、夫を、ほんとうに愛することができませんでした」
 泣きながら、女は言った。
「そして、愛人も、ほんとうに愛することはできませんでした。
 産んだ、わが子さえ、ほんとうに愛していたのかどうか、わからない」

 女は、むせび泣いた。
「私は、誰も、ほんとうに愛せなかった! ほんとうに!
 だのに、夫にも、愛人にも、子どもにも、私は、愛している、と言いました。
 私は大嘘つきです。自分の心に反し、言霊を汚しました…」

 地獄の入り口で、閻魔は女を見ていた。
 閻魔は言った。
「おまえは、嘘をついてない」

 天界行きを命じた。
 だが、彼女の魂は天を拒んだ。未練があったからだ。
 そして地獄へも行けず、渡りかけた三途の川から、またこの世へ出戻った。

   …………………………

「私は、生涯、妻ただひとりを愛し続けてきました。
 ほんとうに、ほんとうに愛し続けてきたんです。
 妻も、私を愛してくれていはずだ! だのに、なぜ私がこんな法廷に…」
 男はいかにも不本意そうだった。

 裁判席の神が憂鬱そうに言った、
「絶対化しただろう。え? ほんとうに自分は妻を愛しているのだと絶対化しただろう。
 この愛こそが素晴らしいのだと絶対化しただろう。思い上がり過ぎなんだよ」

 そして神は厳粛に言った、
「私らは、どちらかというと、迷える者の味方なんだ。
 それに絶対を決めるのは、おまえの領分ではない。私らの仕事だよ。
 もう一度やり直せ」

 男は地獄にも天国にも行けず、また人間界行きを命じられた。