(27)「女性は実体、男性は反省」

 彼がブログに書いている。
 女/男と分けるのは、男女平等に反する、というコメントへの返信に、四苦八苦している様子。

「何でも平等、水平化にするって、おかしいよ。
 森ばかり見て、木を見ず、だ。古来、哲学でも女と男は違う、といわれてきた。すぐ差別だ、は、おかしい。
 そりゃ、あきらかに女性を蔑視するオジンたちもいるだろう。ありゃどう見てもおかしい。そう言われて、女性が何を感じるか、まったく考えないで発言する、その図々しさが堪らない。

 そうではなくて、ぼくは女性と男性の性質の違いについてを書いたのだ。
 認めざるをえない相違があったんだよ、ぼくの数少ない恋愛体験で。それをハナから、男女差別だなんて、何を考えているんだろう」

 彼の言い分はこうだ。
 女性は、献身的である。献身とは、他者があって、できることである。
 言い換えれば、他者なくして、自己がない存在だ。

 だが、それが自然というものなのだ。大地を見よ。
 木のうつろは、風が吹いて、ひゅうと言ったり、ごう、と言ったり音を発する。洞穴だってそうだ。
 花が咲き、ミツバチが蜜を集め、陽が照り、光合成をして、雨が降って根を伸ばす。
 自然は、そのままで、助け合っているのだ。

 女性は、自然なのだ。自然、そのままなのだ。
 ぼくは、頼りない、情けない男だから、ずいぶん、献身してくれる女性がいてくれた。
 ぼくは反省する。だが、女性は、ぼくを助ける意識もなく、そうしてくれたようだったのだよ。
 介護の仕事なども、女性がふさわしいと思った。何か男は、自然でないんだよ。

 あの男のぎこちなさは何なのだろう? 本能で動くというより、常に何か考えて動いている。
 でも女性は、こうしたら、ああしたら、と考える前に動くのだ。
 もちろん、みんながみんながそうではないよ。
 確率として、そういう女性が多いと感じられるのだ。

 まるで献身的な男もいるし、そうでない女もいるだろう。
 ただぼくには、そう思えるということだ。

 男は反省するために生き、女は自然であるために生きているように思えるよ。
 母性本能というのは、要するに、自然であることなんだ。
 父性本能なんて、あるかい? ないない。
 あるとしたら、反省本能さ。

 昔の人は、男には理性があるが、女には無い、なんて酷いことを言っていた。
 そうじゃなくて、女性は自然なんだよ。
 男が抗い続ける自然を、女はしっかり、その身のうちに持ち続けているのさ。

 とりあえず人間だから、男は女に支えられ、女は男に支えられ、その意味で助け合って、今までやってきただろう。
 そう、ぼくにとっての問題は、ここにあるのだ。如何に、女/男という視野の範疇を越えて、ぼくらを見れるかという。

 ざっくばらんなほうへ、ぼくらはいつも逃げていく。
 そうではなくて、どこまでもひとりとひとり、ワタシとアナタで、みつめあって、やって行けないものか、とさ。

 違いがあることは認めよう。
 でも、それを領空や領海みたいに、一線にしてはいけない。
 違いが絶対的にあるとしても、絶対をつくったのはぼくらなのだし、ならば、その上に、違う絶対もつくれるじゃないか。
 それが、ほんとうの関係というものだろうじゃないか。

「それで、どうなるの?」
 わたしは、一読者として、彼にコメントを送る。

「どうなるか、いつも結果は未来にある。今にはない。どうなったかは、いつも途中報告だ。そして結局、決定的な結果や結論なんか出ないのだ」
 そうして彼は、わけのわからないことを、だらだらだらだら書いている。そして得意の自己嫌悪だ。
 ほんとうに、男って、ばかではないかと思う。