その日の午後(1)

 コンコン。ノックの音がする。
 特製の椅子に深くもたれていた彼は、うさぎのように飛び起きてしまった。
 めずらしい。いきなりこんな音がするなんて。シークレットサービスはどうしたのだ。

 彼は机上の電話を取り上げ、受話口へ不機嫌に言った。「おい、ノックの音がしたぞ。どういうわけだ」
 電話の送話口が言った、「きのう貴方が呼べ、と言われたギジン氏ですよ。さきほど、五分前にご連絡を差し上げましたが…」

 彼は、五分前のことをすっかり忘れていた。
 だが金属製の電話機のボディが腰をかがめ、彼へ頭を下げているようだった。彼は耳の向こうにいる、従順なエージェントの姿を思い浮かべ、その誠実な声に満足した。
 この電話の鳴らす、エレクトリックなコール音から、彼の外界との接触は常に始まるのだった。

 手懐てなづけた従僕にさえ、いきなりのノックは許していない。主治医の診察時間、要人との会議・密談の時間、食事・愛人との逢瀬… その五分前には必ず「~のお時間です」と知らせることを義務づけていた。

 この「お時間です」の声を聞き、初めて彼のスイッチが入る。人間との「接触モード」に入るのだ。
 この五分の間に、考えられうるあらゆる想定に、彼は頭を駆け巡らす。人間に対する時、つねに最悪の現実・報せがもたらされる可能性があるからだ。

 それを受け止め、引き受ける容量を自らに設けるため、冷静な対応のできる準備をするために── 愛人にさえ、彼は身体は許したが、心を許していなかった。

 食事も、胃袋の要求は許したが、20年仕えてきた料理人を信用していなかった。テーブルに出されたものをまず下僕に食わせ、24時間後にかれの健康状態を確認し、初めてそれを口にした。

「あらゆる災厄は未然に防げる」と彼は考えていた。「未然の災厄を現然の災厄とするのは、知恵、理知、すなわち理性の欠如に起因する」が彼の口癖だった。

 そして理性とは、感情からは生まれず、冷静・平静であることから生まれるものと信じていた。そのため、彼には更に、細かな注意力、豊かな想像力、強い記憶力が必要となった。

 そうして彼は、災厄を目の当たりにする前に・悪い知らせを顔面に受ける前に、起こりうる最悪の事態を微に入り細に入り想定しておくのだった── なるべく最悪の方へ、最悪の方へ。

 このあらゆる最悪を想定していないから、想定外の現実ができあがるのだ。想定外のことに直面すれば、動揺し、冷静さを失い、正しい判断能力が損なわれてしまう。

 正しい判断のできぬ者は、リーダーとして失格である。彼は、それをずっと肝に銘じてきた。恐るべき事態・報せを、その身が実際に見聞きする以前に、すでに恐ろしい緊張を続けていた。一国の統治者たるもの、かくあるべきと思って。

 だが、このノック音を立てた者を知り、彼の緊張は一気に解けた。忘れていた五分間、彼はまったく微睡んでいた。このノック音で、瞬時にして凝固した緊張の、反動もあった。彼の頬は、とろけるように緩んだ。
「やあ、久しぶりだね」彼は笑顔で出迎える。

「いえ、ウラジーミル、おととい会いましたよ」ギジンが言う。
「そうだったっけ」
「すっかり忘れっぽくなりましたね」
 ふたりは、ソファーに向かい合って座った。

「用件は何ですか」
「きみに会いたくなったのだ」彼は親しげな、しかしどこかすがる・・・ような目つきで来訪者を見つめた。
 ギジンは了解した。この機会を待っていたのだ。で、単刀直入に切り出した。

「ところで、この戦争、やめるつもりはありませんか」
「うん、ないよ。戦争という認識がないのでね。世界は戦争と呼んで、まるで私を悪者扱いだ。しかし私は、この国を守ろうとしているだけだよ」

「攻撃しているのではないんですか」
「そりゃ攻撃しているよ。この国と民の命を守るためにね。きみも、この国がこれまで、どんなに他国からの攻撃を受け、どんなに多くの犠牲が払われたか、知らないわけがないだろう。
 ナポレオンに始まって、次はプロイセンだ。次はトルコ軍。日本軍。地獄絵図だった。わが国は、侵略される一方だったんだよ」

「あれはもう、過去のことではないですか。あの頃は、まるでいくさが当たり前の時代でした。でも、あれからみんな、仲良くやってきたじゃないですか」

「タテマエはね。だが、本音なんか分かりゃしない。信じていたって、簡単に裏切られるものだ。きみ、人間を簡単に信じてはいけないよ。交わした条約を、平気で反故にするリーダーがいたのだ。ほかの国々も、そいつに追従してね。

 何も変わっちゃいないんだよ。風上にもおけない、人間のゴミ溜めが、今も条約や機構、連盟を組んでこの世界を動かしている。ヒツジの皮を被ったオオカミどもの集団が、今も風上に上機嫌にいるのだよ。

 私は、彼らと歩調を合わせられない。私には、この国の民の命を守る義務があるのだ。悲惨な歴史を繰り返したくない。
 わが広大な国土を欲しがって、実にいろんな国が攻めてきたものだ。今や、土は経済に代わったよ。土さえ、金で買うのだ。
 紙きれのサインや握手で、平和的にやって行こうなんて、絵空事だよ。だまされてはいけない。笑顔の裏には、ドス黒い野心がある」

「しかしあなたは今、あなたの国の人たちを苦しめていませんか」
「かつての大戦に比べれば、死者はいないにも等しいよ」

「数の問題ですか、死者の」
「そうだ。きみの国だって、数で決めているだろう」

「それは生者による、生者のための数ですよ。死者の数によって決まるものは、何もありません」
「同じことだよ。死者の数によって、歴史に残る大戦となる。その死者を出すのは、歴史をつくる生者なのだ」