同居人

 200万円! その安さに魅了された新婚夫婦は、その物件を見に行った。
 畳はひしゃげ、ところどころ腐った床が陥没していた。
 駅から徒歩二十分、川沿いの築四十年の古家。前年まで老人がひとり住んでいたらしい。

 住宅街にあったが、その家だけ、ひどく低地に建っていた。
「川が氾濫して、床下浸水に遭ったんです」不動産屋が言う。

 新郎は、少しひるんだが、新婦はその家が気に入ったようだった。
 家というより、その土地に、強く引きつけられている様子だった。

 男は、新妻の嬉しそうな顔を見て、購入の決心を固めた。
 リフォームに、一千万も掛かることだけが惜しかった。
 まだ梅雨の明けない、初夏だった。

 引っ越してまもなく、男が連れて来た飼い猫が頓死した以外、二人の間に、特に不幸な出来事はなかった。
 だが奇妙なことは、それから一年の間に、いくつかあった。

 夫婦は、お互いの立てる些細な音で目が覚めてしまうため、秋頃から二階に妻が、一階に夫が寝るようになっていたが、ある日の深夜、二階から、ドアを閉める強い音が聞こえた。
 次いで、人が活動する音、足音や、襖を開ける音、物を動かす音が、階下にいる夫に聞こえてきた。

 翌朝、彼は訊いた。「昨日の夜、眠れなかったの?」
 妻は答えた。「え?寝てたよ」
「いや、押し入れを開けたり、廊下を歩く音が聞こえたからさ」
「ふうん…」

 また、逆のこともあった。妻が二階で編み物をしていると、玄関の開く音がする。
 それから、台所でガサガサいうレジ袋の音、冷蔵庫の開閉音、人が動き、みしみしいう音も聞こえた。

 ああ、夫が帰って来たんだと妻は思った。だが、彼が帰宅したのは、それから一時間も後のことだった。
 階段を下りて彼女は訊いた、「一度帰って来たでしょ?」
 彼は答えた、「え、今帰って来たんだよ」 

 冬になると、夫君は、毎晩二時三時に決まって目が覚め、玄関先をザッ、ザッ、と、誰かが竹箒で掃く音を聞いた。
 妻君は妻君で、寝る前に、裏庭から動物の動く音を聞いていた。

 そして朝になれば「こんな音が聞こえた」と互いに報告し合った。
 だが話題を、どちらからともなく変えた。こんな音について、話し合いを続ける気にはなれなかった。

 二人ともに、あの音を聞いたのは、翌年の春の終わり頃だった。
 それは音というより、断末魔のような、恐怖に怯え切った、動物のような声だった。

 人間も、自分の生命を奪いかねない敵と出逢った時、その一瞬に、このような叫び声をあげるのかもしれない。

 目の前に迫った危険、追い詰められた運命を持つ者だけが放つ、耳をつんざく最後の絶叫、それを聞いた者の胸を打ち、魂を揺さぶる、あの叫びに似ていた。

 夜明け前だった。夫君は驚いて目が覚めた。と同時に、その叫び声も消えた。
 ああ、夢だったのか。夢も、リアルだと、現実に聞こえるんだ。彼は思った。

 それから、再び眠った。
 だが、朝になると、妻君が彼の寝床に入って来た。そして言った、「怖い声が聞こえたね」

「あれ、聞こえたの?夢かと思ったよ」若い旦那は、腕の中の女に言った。
「現実だよ。ほんとに怖くなる、恐ろしい声って、あるんだね…」

「ノラ猫か、イタチだろ。出くわして、驚いて、致命的な攻撃が加えられる、恐怖におののいた瞬間、とんでもない声を出すんだろ」
「もっと大きな動物だと思うけど…」
 二人、タバコを吸った。

「わたしね」女が、不意に言った。
「今まで、引っ越すたびに、隣りに住む人が死んじゃうの。去年、荒巻さんも亡くなったでしょう」
 男は黙って聞いていた。
「必ずそうなるのよ。一年以内に、みんな死んじゃった」
 女は目をつむり、口をつぐんだ。

 男は考えた。それが事実だとして、おれに何ができるだろう? これから、何がどうなるというのだろう?
 男は、親しんだ女の身体を、強く抱き寄せた。
 その身体から彼へ、ドクンドクンと彼女の心音が響いてきた。

 すると彼に、一つのことが思い当たった。
 隣りに住む人。隣りの人…
 彼女に今、最も近しく、隣りにいるのは、このおれではないか?

 梅雨の季節が近づいていた。
 その日の夜、彼はPCで「三角の土地 川の曲がり角」と入力し、検索を続けていた。
 二人の家は、この条件下にあったからだ。

《 川は死者の魂を呼び寄せると言われています。そのカーブする所は特に魂が行き止まり、集まり、停滞し、その土地に住まう生者に── 》

 ヒットした記事を読み終えると、彼はノートPCを閉じた。
 違う。男は思った。
 これじゃない! おれの場合は、これじゃない!

 数秒後、二階にいた女に、ものすごい叫び声が聞こえてきた。

 階段を駆け下りると、男が恐怖に引きつった顔をして、リビングに仰向けになって倒れていた。
 女は救急車を呼んだ。

 翌日の夜、彼が搬送された先の医師から、女は死亡診断書を受け取った。
 泣き腫らしたその目に、心臓発作、とだけ書かれた文字が小さく見えた。