(1)

 おや、あそこに泣いてる子がいるよ。
 さめざめと泣いてる… 身も世もなくし… お人形さんみたいに! あの子の心はからっぽだ、涙の水ばかりがいっぱいに…
 もしもし、どうしました?
 無言。
 もう、いいって? かたくなな心… 石のようだ、この子は、かわいそうに、冷たくなって!
 拒んでいる… 拒否している! 誰をも、なんぴとたりとも… 一体何が?
 ── 想像力にやられたんだ。羽を広げすぎて! この子の想像には際限がありませんでした… ところがそれも烏合の衆! どんなに飛ばしても衆の一員… いっぱい、衆がいました! この子も、何を言っても「かつて誰かが言っていたこと」を繰り返すにすぎないことに、とことん嫌気が差してしまったのです。
 やさしくあたたかい羽毛、冬なら尚更! ぬくぬくした日だまり… 陽光、目をつむれば見えました… 見えていないものも見えました! この子も烏合の中で微睡んでいました… なんという幸せ!

 この子には無限の可能性がありました… まさにもう! それはもう! それを… それを… 閉じ込めました! 閉じ込めることに成功したんです… 言葉に、絵画に、音楽に… つまり表象に… 収められました。形どられ、彩られ、赤、青、緑、薄紫…
 輪郭と色彩、なんと豊かな! 色が踊り! 文字が! 音符が! ロンド! 円舞! まことしやかに… なんと愉しい! やがてこの子は気づきました… 繰り返しに… ワン・パターンの繰り返しに… 生活だけじゃない、烏合が! 衆が! 時間が! 歴史が! ワタシだけジャナイ… ワタシだけじゃなかった、ワタシだけが繰り返してるんじゃなかった… 赤、黄、紫、緑… 八分音符! ラッタッタ! うさぎのダンス! 鳥の舞!這いつくばって… 横になり… 立ち! 歩き! 走り… 跳び!
 鳥ですもの! この子が言います… あれは水辺のいきもの! ほら、あれはヒト、あれは両生類、あれは昆虫… それぞれが、それぞれの… 繰り返しを!

 この子はそう言って、図鑑を、解体新書を、歴史書を、〈家庭の医学〉を… ひもときました、読み、聞き、書き! なぞらえ、暗誦し、憶え、この子は!
 知れば知るほど、読めば読むほど、見れば見るほど、聞けば聞くほど、この子は冷めていきました… わたしたちが、この子を閉じ込めさせたんです。分別があり、聡明で、賢い子だと、よく誉められていたものでしたが! もうこの子は100歳になります… 人間で言えば! いっかな、何も変わりません… 微動だにも!
 ── 繰り返してきた、それだけなんだ。

 わたしにはこの子が考えていることがわかります…「それだけなんだ、いつもいつも… ずっとずっと!」
 分別を失くし、埋め込まれた知識見識、聡明・愚鈍の区分け… 〈良識〉… この子は打っちゃろうと、捨てよう、廃棄しようとしています… ゆっくりゆっくり、消去しようと!
 わたしたちがせっかく育ててきた、時間ごと、まるごと! まるでなかったもののように…

「ヒトは」とこの子が言います、「もう決まっているんだ、行動パターン・思考パターンが。このパターンから逃れることも、越えることもできない。どんな想像・思考をしようが、それがどんなに無限のように思えようが、それももう決まったメカニズム、回路からの呼応、発信にすぎないんだ」
 わたしにはこの子の考えていることがわかります。
 このわたしの〈わかる〉も、この子からすれば、もうわかっていたことなんです。この子は、もうわかっていました。そしてわかっているんです、今も!
 こんな子に、一体どんな言葉が掛けられるのでしょう? この子はわかっているんです! わかっているんです!!
 ── お母さん、この子はわかっていないこともわかっていますよ。わかっていないことをわかっている… わからないんじゃない、わからないことをわかっているんだ。わからないという言葉の意味を。わかるという言葉の意味を。言葉で考えているその意味を! わかっているんですよ… これには私もお手上げだ!

 どうしたら? いやお母さん、それはあなたの杞憂ですよ… この子はわかって泣いているんですよ。わからないで泣いているんじゃありません。泣いていることもわかっていますよ、本人が!
 私たちは、いつも傍観者でしかいられないんですよ… 言葉も! 音も! 風ですよ、風! 肌を舐め! 耳をこそばゆくさせ! 愛撫も、くすぐるつもりも、苦しめるつもりも悲しませるつもりも、何の意図もありませんや!
 そうなろうとしているんでしょう、この子は! 私たちがそうさせてきた、そのために! 私たちがこの子にしてきたことを、この子は無に帰してくれるでしょう! 育て甲斐があったというものです!
 あなたも、あなた自身を! 何もなかった! こんな思考も、ヒトならではです!
 あなたはこの子の理解者だ! 胸を張って泣きましょう! ええ! そら、泣きたくもなりまさあ! 私だって、何のために生み出され、こき使われ、こんなこと言ってるんだかわかりゃしませんや!

「でもあなたは情で動いた!」まだ言う…
「あなたは情で生まれたのでしょう? 」
 情動の産物! そうだ、私は理性で生まれたんじゃない! 赤、青、緑、薄紫… いささか派手になりすぎたが! ああ感動! 感じ、動じ… あまりにも動じ… 動かされた心! 意表を突かれ! 予測不可能な! 大地震! こっから生まれ出たんだった、ヒトの口から! 思いがけなく! 何の意図もせず!
 二次的感動! その時は思いも伝わった! 確かに!
 そして時間が! 時間が!