あそこじゃ喧々囂々だ… どこでだって、精神世界は大差ない、たまたま出逢い、たまたま好きになり、たまたま一緒に暮らし始めた。子どもができて結婚! よくあることだ… そして「こんなはずじゃなかった」
最初の一、二ヵ月の内に、一度は別れてしまおうかと考える… 真剣に。今ならまだ間に合う、そんな気がして。
その波が過ぎれば落ち着いて… 元のサヤに… どこがサヤだったのか、たぶんここだろう、というふうに。
また時間が経って、すれ違う。やっぱりだ、もう別れてしまおう。いつかもこんな気分になった。
しかしどこへ? もう親元を離れ実家を離れ… 私の行く場所は? 戻る処は? ここしかないなんて!
そうして幾年過ぎて… もはや互いに離れられなくなって、当然のようにふたり顔を見合わせている。髪を少し切ったことも気づかれないで。
隣室がうるさい。夜の11時を過ぎたのにベランダで洗濯機回してる。パンパン!と音立てて干して… 私の妻は国家指定の難病だ… 睡眠が大切だ! よろず病院で薬もらって、これを飲んでりゃ死ぬこともない。一見、健康。誰も難病だなんて気づかない。週に四日、日本庭園の受付のパートさえしてる… でも彼女は難病なんだ、国家指定の! よく食べ、よく眠ってもらわにゃ!
パンパン… 毎日… 夜毎! しかもベランダで! 壁ドン? いや壁に罪はない… ベランダの仕切り版、「非常の際はここを破って隣戸へ避難して下さい」越しに文句を垂れる? いやひと悶着、逆ギレでもされて騒ぎになるのも面倒だ… 今妻は眠ろうとしてる、私が騒ぎを起こしてどうする?
悶々、悶々… しかし隣りのやつぁ平気の平左だ、パンパン、パンパン!
妻は眠ったようだ… かわいそうに、耳栓をして。いびきかいてる… 私が眠れない!
でもいいんだ、愛する妻がよく眠れれば! しかし彼女、ストレスだろうなあ、隣りのやつぁ挨拶もしないという、玄関先で顔合わしても。ああストレス! 難病が促進する、ストレスは病を増長させる、国家指定の!
いっそ殺しちまうか? そっと… 誰にも気づかれぬように… いやなんで私が悪人に? イカレてんのは隣りじゃないか、なんで私がブタ箱に…
しかしたいして彼女、気にしてない。少なくとも表面上は。だがこっちは! 深層心理、当人の知らない心模様、当人が知らんぷりしてる当人の心の動き、その動きが当人にどんな影響を賦与するか、知らず知らずの内に心が当人をどんなに蝕んでいくか… この心理の微細な動きについちゃ、一家言ある!
世の中なんて誤魔化しでできてんだ… 初動を辿りゃ、てめえがてめえを誤魔化すことから始まってる… そうして病んでくんだ、社会が、世界が、地球が!
グー、ガー、ゴー… 一瞬、呼吸が止まる。死んじまったんじゃないかと心配する… と、いきなりゴー! 無呼吸症候群ってやつだ。まったく、妻は病気の宝箱だ。この頃は手の指が膨れ、曲り、異形化してる。まだ一本で済んでるが、この先どうなることやら!
── 関節炎、こうなる人、多いみたいよ。彼女は言う。得意のネット情報だ。一体、ネットがなかったら? 彼女はもっと不安になってただろう! 病名の効用! 傘に収まった。不安の、最も厄介な不安は「原因不明」だ。病名は人を安心に誘う、たとえ決定的な治療法がなくても。病名さえつかない病、どんなに検査しても分からない病、しかも本人は常に不調… こんな症状だけの「病気」が、人を不安の根底に、谷底に、真っ暗闇の地下室に閉じ込めるんだ…
寝室からは大いびき、窓の外からパンパンパン、音の洪水だ。まあ彼女のはいい… かきたくてかいてない、寝てんだ。が、隣りのやつは! 洗濯物のことしか考えてない! 自分の! ダンナの? 同じことだ…
こういう輩が最も私の嫌う人種だ。まわりの迷惑を省みず、パンパンパン! 洗濯機がどんな音を立ててたかにも無頓着! 脱水の時の! ああ、私がバカなのか? 私の常識が? 信じてきたすべてが?
そんな、人のことなんて! あんたのすがってきた常識も、人がつくったもんじゃんか!
いや違う、私は人の迷惑になりたくないだけだった、人の気持ちをまず第一に考えた、そこから「常識」ができあがった筈だ、一般に!
人第一? 人のことをまず考える? よう言うわ! その「人」は誰かね? 人のことを考える? 考えてるのはてめえじゃねえか、てめえが考えてんだよ、てめえが! つまりてめえはてめえのことを考えてんだ、人のことなんかじゃねえんだよ!
人のことを考える? 人のことを考える? その「人」をてめえの中に取り入れて、あれこれ想像してるだけじゃねえか。そんな想像が、相手に当て嵌まると思うかね? 相手の気持ち? てめえの中から出られないのに、どうやって相手の、ましてや気持ちを? え? どうやって? どんなトリック? 人のことを考えるなんざ、できやしないんだよ。考えてんのはいつだって自分のことばっかなんだ。人は、おまえの鍋におまえが取り入れた単なる具材さ…
── やれやれ! 俺ら、迷わすためにここにいるのかね? 言葉を使って考えてばかりいるよ。
おや、また彼、ひとりで文句言ってるぞ。彼女が起きたんだ、妻と称せられる…
どんどんどん! すごい足音! こりゃ二階の人に大迷惑だ…
だのに本人は気づいてない! 自分の立てる足音に!
これまた彼氏の悩みの種だ、「人第一」主義の!
どうして彼女は自覚しないんだろう… 彼氏、独り言つ… あんなに気配りのできる女なのに、どうして自分の足音に?