ところで、情熱。
情熱は、それが表される対象を求める。
人を嫌いになるのも情熱のひとつの表れで、無関心であったら嫌いにもなれない。
ただわたしはわたしが好む相手に、この情熱を捧げる。
主体的に、自主的に。
ひとりでいる時がわたしの裏だとしたら、好きな人と会う時はわたしの表だ。
情熱をもって、わたしは人と接する。
そしてひとりになって、心地良い疲れに満足する。
何も、義務で人と接するのではない。
わたしという主体から、わたしは人と交流する。
義務など、弱い人間が自律できないために、自分に課した偽物の冠だ。
人間どうしの、最も適した関係のできる人数は、一対一。マンツーマン。
古来から、貴族社会では有能な家庭教師一人が、子一人の成長にあてがわれた。
恋は、おとなになっても子どものように、人間を成長させる。
貴族貧民にとらわれず、誰にでもあてがわれる、人間成長の機会。
それには、情熱と好奇心が欠かせない。
情熱は、ひとりでに湧き立つ。
わたしのあらゆる部位、心、胃、足が、これらを統括する「わたし」本体から湧く情熱によって、軽やかに踊り出す。
知識も頭脳も、「わたし」本体が動かす、付属物だった。
それがいつのまにか、本末転倒、わたし本体を乗っ取ってしまった。
頭でっかちな頭の重みに、うなだれたヒマワリみたいに生きたくない。
情熱は、軽やかなものだ。
下を向き、スマホばかりいじっている人間とは、つきあいたくない。
彼らは、踊ることを忘れている。
脳に食われたくない。
威張るなよ、脳。
身体、わたし自身の本体あっての、脳なのだ。
おまえはわたしの付属物でしかない。
人を好きなる情熱、嫌いになる情熱。
要求、欲求、本体自身が求めるもの。
求められた付属品であるわたしは、右往左往する。
だが、それをもわたしは本体によって包み込む。
本体は、わたしの頭を撫でる、「よしよし、よしよし」。
異性同性は関係ない。
わたしの心に入ってきたものが、すなわち恋愛対象である。
恋は遠くを見つめ、愛は近くに寄り添う。
行ったり来たりの、ブランコのような関係をわたしは理想する。
べったりする、餅のような関係は持ちたくない。
だからわたしは結婚しない。
子どももつくりたくない。
こんな絶望的な世の中にあって、子どもをつくるなど、殺人行為に思う。
人が、もっと成熟し、差別や偏見がなくなって、各々の中に一人一体、神を創造した暁に、子の生誕を初めて喜ぶだろう。
わたしは銀座のクラブで働いている。
プロ野球選手や政治家、芸能人等の相手もする。
衆目を浴びる立場、メディアをリードする立場にいる人間の、ちっぽけさ、虚飾に溢れた足腰のもろさを、いっぱい見てきた。
こんな人間に、衆人は踊らされているのかと思った。
まさに、踊らされていると思った。
足はあるが、幽霊のような人間。
形ばかりの、そらまめのような人間。
単純な人間に、わたしがホッと憩うのは、職業病かもしれない。
何ものにも固められず、そのままでいるしかできない、虫のようなわたしの恋人。
恋人? わたしを喜ばす、異性同性はたくさんある。
一対一は、どこまでも同じ相手との一対一ではない。
あちこちに、わたしの「対」は転がっている。
喘ぎ、生き難さに青色吐息になって、苦渋に満ちて転がっている人間がある。
彼らは、けっしてそれを他人のせいにしない。
自分のために苦しんでいることを自覚している。
この自覚を持つ者は、孤独である。
だから「対」になれる。
一対一として結ばれ、足に地を着けた、人間関係が結ばれる。
そうして初めて踊れる。
軽やかに、孤と孤が交ざりあい、円を描き、そのとき初めて、わたしは舞える。
わたしは、そのような人間としか、関係を結ばない。