(2)わたしの恋愛

 ところで、情熱。
 情熱は、それが表される対象を求める。

 人を嫌いになるのも情熱のひとつの表れで、無関心であったら嫌いにもなれない。

 ただわたしはわたしが好む相手に、この情熱を捧げる。
 主体的に、自主的に。

 ひとりでいる時がわたしの裏だとしたら、好きな人と会う時はわたしの表だ。

 情熱をもって、わたしは人と接する。
 そしてひとりになって、心地良い疲れに満足する。

 何も、義務で人と接するのではない。
 わたしという主体から、わたしは人と交流する。

 義務など、弱い人間が自律できないために、自分に課した偽物の冠だ。
 人間どうしの、最も適した関係のできる人数は、一対一。マンツーマン。

 古来から、貴族社会では有能な家庭教師一人が、子一人の成長にあてがわれた。
 恋は、おとなになっても子どものように、人間を成長させる。

 貴族貧民にとらわれず、誰にでもあてがわれる、人間成長の機会。

 それには、情熱と好奇心が欠かせない。
 情熱は、ひとりでに湧き立つ。

 わたしのあらゆる部位、心、胃、足が、これらを統括する「わたし」本体から湧く情熱によって、軽やかに踊り出す。

 知識も頭脳も、「わたし」本体が動かす、付属物だった。
 それがいつのまにか、本末転倒、わたし本体を乗っ取ってしまった。

 頭でっかちな頭の重みに、うなだれたヒマワリみたいに生きたくない。
 情熱は、軽やかなものだ。

 下を向き、スマホばかりいじっている人間とは、つきあいたくない。
 彼らは、踊ることを忘れている。

 脳に食われたくない。
 威張るなよ、脳。

 身体、わたし自身の本体あっての、脳なのだ。
 おまえはわたしの付属物でしかない。

 人を好きなる情熱、嫌いになる情熱。
 要求、欲求、本体自身が求めるもの。

 求められた付属品であるわたしは、右往左往する。
 だが、それをもわたしは本体によって包み込む。

 本体は、わたしの頭を撫でる、「よしよし、よしよし」。

 異性同性は関係ない。
 わたしの心に入ってきたものが、すなわち恋愛対象である。

 恋は遠くを見つめ、愛は近くに寄り添う。
 行ったり来たりの、ブランコのような関係をわたしは理想する。

 べったりする、餅のような関係は持ちたくない。

 だからわたしは結婚しない。
 子どももつくりたくない。
 こんな絶望的な世の中にあって、子どもをつくるなど、殺人行為に思う。

 人が、もっと成熟し、差別や偏見がなくなって、各々の中に一人一体、神を創造した暁に、子の生誕を初めて喜ぶだろう。

 わたしは銀座のクラブで働いている。
 プロ野球選手や政治家、芸能人等の相手もする。

 衆目を浴びる立場、メディアをリードする立場にいる人間の、ちっぽけさ、虚飾に溢れた足腰のもろさを、いっぱい見てきた。

 こんな人間に、衆人は踊らされているのかと思った。
 まさに、踊らされていると思った。

 足はあるが、幽霊のような人間。
 形ばかりの、そらまめのような人間。

 単純な人間に、わたしがホッと憩うのは、職業病かもしれない。

 何ものにも固められず、そのままでいるしかできない、虫のようなわたしの恋人。

 恋人? わたしを喜ばす、異性同性はたくさんある。

 一対一は、どこまでも同じ相手との一対一ではない。
 あちこちに、わたしの「対」は転がっている。

 喘ぎ、生き難さに青色吐息になって、苦渋に満ちて転がっている人間がある。

 彼らは、けっしてそれを他人のせいにしない。
 自分のために苦しんでいることを自覚している。

 この自覚を持つ者は、孤独である。

 だから「対」になれる。
 一対一として結ばれ、足に地を着けた、人間関係が結ばれる。

 そうして初めて踊れる。

 軽やかに、孤と孤が交ざりあい、円を描き、そのとき初めて、わたしは舞える。

 わたしは、そのような人間としか、関係を結ばない。