(3)この世のもの

 一目見て、あ、この人は自分に合わない、という相手もある。
 そうこちらが感じたことを、相手も感じている。
 相手も、わたしと合わないと感じているのだ。
 これは会った瞬間に、おたがいを理解するという、不思議な邂逅である。

 わたしには、相手が何を考えているのか、手に取るように分かる。
 ああ、わたしのこういうところが気に入らないんだな、こういうところがシャクに障るんだな、と、すぐ分かる。

 この「理解」をする時、わたしは相手に、わたしの胸いっぱいに三面鏡を広げ、相手を照射している。
 わたしの鏡に、相手は目いっぱい入ってくる。まるでわたしは、この相手そのものに乗っ取られてしまう。

 相手は、わたしをモノにしたと思う。そこで、イジメが発生する。
 相手は、ぎこちなく動くわたしを、さらにぎこちなく、苛むようにじわじわと攻撃を加えてくる。
 地味に、陰険に、他の人にさとられぬように。

 典型的な戦法。
 ロッカーにごみを入れてきたり、靴の中に妙な物を入れてきたりする。

 だが、これはふたりの世界だ。
 この相手は、わたしが気になって気になって仕方ないのだ。
 わたしが、こいつが気になって仕方ないように。
 これは恋だ。ふたりだけの、ふたりにしか通じ合えない、恋の世界だ。

 彼女のまわりには手下がいる。
 わたしとは関係ない、偶然石につまずいた鬱憤さえ、そのはけ口に、彼女を通してわたしに向ける、かよわき手下たち。
 だが、彼女たちは、おまえらのボスとわたしが、どんなに深くつながっているかを知らないのだ。

 このような屈折した愛の表現者及び手下たちに、わたしは手を焼いた。
 おとなになっても、こんな稚拙な表現しかできない幼児がいるのだ。

 わたしは、彼女に言ってやった、「あなた、わたしのこと好きなんでしょ」
 相手は、キョトンとした。それから、強がるように笑い出した。
 その強がりさえ、強がらぬように自分を笑いに被せて。
 どこまでも屈折した人間は、自分自身に対してさえこのような態度をとる。

 わたしは、その間隙を縫って、平手打ちを喰らわせてやった。
 スキを突くのは卑怯なことだが、相手も十分卑怯である。
 卑怯に、卑怯をもって対するのは、真っ直ぐな正攻法である。

 相手は、わたしにつかみかかってきた。
 その時、わたしはこう言ってやりながら、自分を防衛した、
「愛しているよ、わたしはおまえを愛しているよ」
 何回も、何回も言ってやった。

 すると相手は泣き出した。手下どもは、あっけにとられて立っていた。

 野蛮な相手には、野蛮な踊りがよく似合う。
 わたしは、相手によってステップを変える。
 ダーティな相手には、ダーティに接する。
 わたしは、わたしの三面鏡を壊してやった。

 わたしから、相手を映し込む鏡がなくなると、相手は目のやり場にも困るようだった。
 自分の居場所を失った、家なき子。
 わたしは、おまえの家ではなかった。
 もう、おまえはおまえの鬱憤を、わたしに向けて晴らせない…

 銀座の高級クラブに勤めている、それだけで、くだらぬプライドを持つ女たちがいる。
 わたしへの指名が多いから、わたしをイジメたがるヤツがいる。
 気に入らぬ相手は、気に入る相手の裏返しであることを知らぬ、盲目の愛の亡者。

 おまえは、おまえ自身で、すでにおまえそのもの、もの自体であったのに。
 わたしは、わたし自体としておまえに対した。
 これからおまえは、おまえの中のわたしを映す鏡によって、このクラブでわたしと接していくことになるだろう。

 わたしの、おまえのための、おまえを照らすものは取っ払われている。
 おまえはおまえ自体で輝け。もしおまえが、まだねじくれて、人気者を苛むようなことをすれば… その時は、わたしもおまえに加担しよう。喜んで手下になろう。

 苛まれた者は、またその者自身として、おまえに対してくるだろう。
 根くらべの挙句、新しい知恵が、その者から出ずるかもしれない。
 何もなく、ぬらりひょんのようにその者は辞めていくかもしれない。

 何にしても、わたしはくだらぬ心に縛られぬものだ。
 心は善悪を生む。
 悪は善を生む。善が悪を生む。同じことだ、同じことだ。

 わたしは、おまえがわたしをイジメたことを、何とも思っていない。
 正体不明の心から、わたしは何一つ、決定的なものを得ようとは思わない。
 そこにあるものと、踊るだけだ。

 一個の人間、それ自体がそれ自身、それそのものとして、この世は余すところなく埋め尽くされている。
 何も人間に限らない。
 このグラスが、ドンペリが、椅子が、テーブルが、石ころが、靴下が…
 すべて、すべて、「それそのもの」なのだ。
 それで全く、十分なのだ。