斉物論篇(六)

 しかし、目で確かめられないということが、そのものが存在しないという証拠にはならない。

 たとえば人間の身体の諸器官は、それぞれ独立の機能を持つにもかかわらず、真宰とでもいうべきものによって統一されている。

 その真宰は目に見えないが、しかもそれが存在することは厳然たる事実である。

 とするならば、人間を喜び悲しませる主宰者の存在も、やはり疑えない事実であろう。

 それでは、その宇宙の主宰者とは何か。

 ── と、これは訳者の森三樹三郎さんの言である。

「荘子」を続けよう。

 ひとたび人間としての形を受けた以上は、これを滅ぼすことなく、命の果てる日まで待つしかない。

 それにも関わらず、世の人は、あるいは物に逆らいつつ、あるいは物になびき従いつつ、その人生を駆け足のように走り抜け、これをとどめるすべを知らないのは、あわれというほかないではないか。

 その生涯をあくせくと労苦のうちに過ごしながら、しかもその成功をみることもなく、ぼうぜんとして疲れ果て、人生のゆくえも知らずにいるのは、あわれというも愚かではないか。

 このようなありさまで生きているのは、たとえ他人が「お前はまだ死んでいないよ」と言ってくれたところで、それが何の役に立つだろう。

 その身体が滅びるとともに、その心もまた同時に滅びるほかはない。

 これを大きな悲しみといわずに、いられるだろうか。

 この世に生きる人々は、すべてこのような惑いのうちにあるのだろうか。

 それとも私だけが惑いのうちにあって、世の人のうちには、惑わないものがあるというのだろうか。

 ── かなしいね。まったく、かなしいよ。

 自殺を想うよ。たとえ自ら死んだとしても、それは「とどめる」ことにならない。自死は、それも、その死を待ったが成れの果ての、そのものの運命、といっていいと思う。

 それは、「すべ」ではない。

 嘆きの、うた、だ。

 何をあくせく、ワレ・先ニ、とばかり、スマホでどうの、Xでやいの、やってるのかと思うよ。

 生命の、完徹。貫徹?
 
 それが自であれ他であれ、生であれ、死であろうよ。ひとつひとつの、生であり死であろうよ。

 自死であれ他死であれ…

「待つ」。これは、ぼくの人生で度々、ちょくちょく、お目にかかる、心にかかる? キーワードだ。

 仕事を、暇つぶし、と言った人もあるが、生きる、そのものが、暇つぶしなのかもしれないね。