逍遥遊篇(二)

 地上にかげろうがゆらぎ立ち、塵埃がたち込め、さまざまな生物が息づいているのに、空は青一色に見える。

 あの青々とした色は、天そのものの本来の色なのだろうか。それとも遠く果てしないために、あのように見えるのであろうか。おそらく、後者であろう。

 とするならば、あの大鵬が下界を見下ろした場合にも、やはり青一色に見えることであろう。

 そもそも水も厚く積もらなければ、大舟を浮かべるだけの力がない。さかずきの水を土間のくぼみに落としただけでは、あくたが浮かんで舟になるのがせいぜいであり、杯を置いても地につかえるだけであろう。

 水が浅くて、舟が大きすぎるからである。

 とするならば、風も厚く積もらなければ、鵬の大きな翼をささえるだけの力はない。

 だから九万里の高さに上って、はじめて翼に耐える風が下にあることになる。

 こうして今こそ、大鵬は風に乗って上昇しようとする。

 背に青天を背負うばかりで、さえぎるものはない。こうして今こそ、南をさして飛び立とうとする。

 荘子の出だし。荘子の思想に最も近いとされる、内篇の。

 いやあ、大きいなあ! 宇宙から見れば、あの青天の空の、もっと向こうから見れば、青天に見えるだろう。地上の、塵芥、素粒子にも満たぬような小さな者から見ても、あの空は青天だ。宇宙から見たって、この空は青天だ。

 それは、空そのものの色ではない。

 遠くから見るから、そう見える。青く。青く。同じ、青に見える。

 邪悪なものも神聖なものも、善きものも悪しきものも、なんでもかんでも混沌と、押し合いへし合いしている地上。

 まるで果てのないような、広大すぎる宇宙。

 天と地。どちらから見ても、それは青いんだ。

 鵬を乗せるもの。塵芥、この地上に積もった、空気の風。ごちゃごちゃと、やかましいこの地上、このぜんぶが、あの鵬を乗せる「積もったもの」ではないか。

 鵬はその風に乗る。風は、鵬を乗せる。

 何ということもない文面にも見える。が、これが荘子の、思想の旅立ち── この物語の、まさに「出だし」、始まり、荘子自身の始まりだったのではないか。

 万人の、もしかしたら始まり、「考える」「思う」「意識」そこから、自分がはじまり、自分が生きているのだとしたら、ここから始まるのではないか。

 もし「生」がはじまりだとすれば。

(引用、「世界の名著」4 老子荘子、森三樹三郎訳)