地上にかげろうがゆらぎ立ち、塵埃がたち込め、さまざまな生物が息づいているのに、空は青一色に見える。
あの青々とした色は、天そのものの本来の色なのだろうか。それとも遠く果てしないために、あのように見えるのであろうか。おそらく、後者であろう。
とするならば、あの大鵬が下界を見下ろした場合にも、やはり青一色に見えることであろう。
そもそも水も厚く積もらなければ、大舟を浮かべるだけの力がない。杯の水を土間のくぼみに落としただけでは、芥が浮かんで舟になるのがせいぜいであり、杯を置いても地につかえるだけであろう。
水が浅くて、舟が大きすぎるからである。
とするならば、風も厚く積もらなければ、鵬の大きな翼をささえるだけの力はない。
だから九万里の高さに上って、はじめて翼に耐える風が下にあることになる。
こうして今こそ、大鵬は風に乗って上昇しようとする。
背に青天を背負うばかりで、さえぎるものはない。こうして今こそ、南をさして飛び立とうとする。
荘子の出だし。荘子の思想に最も近いとされる、内篇の。
いやあ、大きいなあ! 宇宙から見れば、あの青天の空の、もっと向こうから見れば、青天に見えるだろう。地上の、塵芥、素粒子にも満たぬような小さな者から見ても、あの空は青天だ。宇宙から見たって、この空は青天だ。
それは、空そのものの色ではない。
遠くから見るから、そう見える。青く。青く。同じ、青に見える。
邪悪なものも神聖なものも、善きものも悪しきものも、なんでもかんでも混沌と、押し合いへし合いしている地上。
まるで果てのないような、広大すぎる宇宙。
天と地。どちらから見ても、それは青いんだ。
鵬を乗せるもの。塵芥、この地上に積もった、空気の風。ごちゃごちゃと、やかましいこの地上、このぜんぶが、あの鵬を乗せる「積もったもの」ではないか。
鵬はその風に乗る。風は、鵬を乗せる。
何ということもない文面にも見える。が、これが荘子の、思想の旅立ち── この物語の、まさに「出だし」、始まり、荘子自身の始まりだったのではないか。
万人の、もしかしたら始まり、「考える」「思う」「意識」そこから、自分がはじまり、自分が生きているのだとしたら、ここから始まるのではないか。
もし「生」がはじまりだとすれば。
(引用、「世界の名著」4 老子荘子、森三樹三郎訳)