長梧子の言葉は、なお続く。
「夢の中で酒を飲んで楽しんでいたものが、朝になって悲しい現実に泣き出すことがある。
反対に、夢の中で泣いていたものが、朝になるとけろりとして猟に出かけることがある。
夢と現実は、このように違ったものだ。
ところが夢を見ているうちは、それが夢であることがわからず、夢の中で夢占いをすることさえあるほどで、目がさめて初めて夢であったことに気がつくありさまである。
だから真のめざめがあってこそ、はじめてこの人生が大きな夢であることがわかるのだ。
それなのに世の中の愚かものどもは、自分では目がさめているつもりで、こざかしく知ったかぶりをし、あれは尊い、これは卑しいなどと、差別の知を働かせるものだ。愚かしい限りではないか。
こう言っている私も、実はお前と一緒に夢を見ているのだよ。
いや、『お前は夢を見ているのだ』と言っている私自身も、夢の中で言っているのかもしれない。
こういう話のことを弔詭── 奇妙きわまる話というのだ。
この奇妙な話がわかるような大聖人にめぐりあうことは極めて稀で、たとえ千年万年の間にひとりでもめぐりあったとしたら、それはよほどの幸運だよ」
── うん。幸運だと思うよ。あなたに出会っていなければ、私もこんなこと、ここに書いていないし、考えることもできなかったろうからね。
笑えるな。微笑めるよ。いや、嬉しくてね。
嬉しい出会い── でも、もう会えなくなって、初めて、「会えて嬉しかった」となるんだよな。
ちょっと、チャチャを入れようか。何も聖人、卑人と分けなくてもいいんじゃないかなぁと思うよ。
それも、仕方のないことだけど。うん、仕方ないね。うん、差別、区別── そんなことに知恵を働かすな、ということだからね。
知恵、か。
働かすまでもないことが、ほんとの知恵のような気もするよ。でも、働く。働かせようとしてしまうのかな。あんまり、そういうこと、しないようにいきたいねえ。