公文軒が右師を見て驚いて言った。
「これはまた、どうしたことなのだ。一体、誰に足を切られたりされたのかね。天命によってされたのか。それとも誰か人間がやったのか」
すると、右師は答えた。
「天命で、こうなったのだよ。人間がやったわけではない。天がわしを生んだ時に、一本足になる運命をくれたのだ。
大体、人間の顔かたちというものは、すべて天から授かったものだ。このことから考えても、わしの足がなくなったのは、天命によるものであり、人間のせいでないことが分かるではないか」
── そうそう、こういうことなんだよ。
誰のせいでこうなったとか、あいつのせいだとかこいつが悪いとか、そんなもんじゃない。
後悔も同様で、あの時こうしていればとか、ああしていたらとか、そういうものじゃない。
何のせいでもない。何が悪かったわけでもない。この世の事象、目に見える者、物は、パペットみたいな操り人形だよ。
それを動かすものは、あたかも自分の意思で動いているように見えるが、よくよく見れば一貫した一定の路線、大きく曲がりくねっていてもその軌道から外れたことのない、天体をまわる衛星のようにも見える。
あいつを恨む、こいつを憎む。小衛星と自分としては、なんでこいつはこういう人間になったんだろう、どうしてこうなったんだろう、何がそうさせたんだろうと思う。
何かイヤなことでもされたら、そいつを憎む。でもなぜ自分に対してこいつはそういう所作をするのか、なぜそんなことを言うのか、そうさせる、言わせるものを憎む。
誰かが自殺したとする。でもそれはそのひと「個」の問題ではない。そのひとが人間であれば、人間のことを思う。そのひと限定に起こったこと、とは、到底思えない。そのとき僕は、人間というもの、そうさせるもの、その人間存在、何か全的な、やたらでかく、正体不明のものであるが、そいつ、けっして目に見えぬ、そいつに対して怒りを抱く。どうしようもなく怒りを抱く。