人間世篇(十一)

 顔闔がんこうえい霊公れいこうの太子の御守役になろうとする時、籧伯玉きょはくぎょくに向かって尋ねた。

「ここに一人の人間がおります。その人間の生まれつきは凶暴であります。その人間と一緒になって無法をすれば、わが国を危なくする恐れがありますし、かといって正しい道をともにしようとすれば、わが身を危なくする恐れがあります。

 しかも、他人のあやまちを知るだけの知恵はもちあわせながら、その過失の原因を理解するだけの力がありません。このような人間に対しては、どのようにすればよいでしょうか」

(── 全く、このような者に対してどうすればいいのか。そも、自分がそのような者になってはいないか。まったく、他者について考えることは自己について考えることになる、と思いつつ…)

 籧伯玉は答えた。

「なかなか良い質問だよ。用心し、慎重にかまえて、お前の身を正しくすることだ。その身の行動は、相手に従うようにするのがよく、その心は相手と和するようにするのが一番よい。だが、この二つのことにも、注意が必要だ。

 相手に服従する時には、深入りしないことが必要だし、相手と和する時には、その和しようとする心を表面に出さないことが必要だよ。

 もし、自分自身を相手に従わせて深入りするようなことがあれば、自分の身は、顛倒てんとう、破滅、崩壊、つまずき、などと憂き目にあうことになろう。

 また、もし、相手と和しようとする心が表面に出るようなことがあれば、そのために名声や評判が高くなるだろうし、その名声はいろいろな災難を招くもとになろう。

 相手が赤ん坊のような振る舞いをする時には、自分も赤ん坊のようにすればよい。相手が無軌道な振る舞いをすれば、自分もまた無軌道にするがよい。

 相手が無制限にほしいままなことをするならば、自分も無制限にほしいままにすればよい。このように相手の思い通りにさせながら、次第に完全な境地へと導き入れるのである」

 ははーん。処世術だなあ。でも、このような人を知っている。東京の友達に… もう、三十五年になるか。このひとは、無形のような存在で… もちろん眼鏡をかけて、髪は年々薄くなってはいるようだが、自転車に乗るのが大好きなひとで、でも心がまるで無形なのだ。

 会っていると、まるでこちらが自由になるのだ。一緒に風俗に行ったりお酒を飲んだりして、全く楽しかった。自分が、どんどん自由になる気がした。彼の無形さに引き込まれ、また、無限に開放されるような感じがして。

 賀状に「ツァラトゥストラ読んでます」と書けば、「あれは面白いですね。ぼくも読み返したいです」みたいな返事が来る。「俺こう思うんだよ」と言えば、にやにやしながら聞いている。

 彼は彼で、いろいろ思うところがあるだろう。でも、それをいちいち事細かく言わない。至って簡単な言葉、文字にすれば一行ほどで終わりそうな、相槌のようなことを言う。基本的に、多くを語らぬひとだ。

 そうして何やら、いつ会っても違和感がないような、おたがいに…なのか私だけが思っているのか、そんな関係がある。

 大きなひとなのだと思う。そうして小さな私は簡単に吸い込まれ、きっと包容され、いい気になるのだと思う。が、彼の芯のようなところ、太陽の黒点みたいなものが、何か私を「矯正」するような、彼は正しさについて何も言っていないのに、こちらが勝手に矯正されるような気持ちに、よくなる。

 会ってみようかな、また。