(8)彼の場合.1

 ぼくは、恋人と一緒に暮らしている。
 でも、彼女は寝たきりだ。
 去年の夏、突然彼女はそうなった。
 医者に連れて行こうとしたけれど、彼女はひどく首を振った。

「病院は、病気をつくるから」「医者なんて大キライ」と。
 で、ぼくは布団を敷いて、彼女をやすませた。

 それ以来、ずっと寝たきりなんだ。
 ものを、しゃべれない。自分で、物を食べれない。
 もちろんトイレにも行けない。ぼくがぜんぶ、世話をしている。

 一緒に暮らし始めて、今年で8年になる。
 大学の、舞踏サークルで出会ったんだ。

 初めて一緒に踊った時、とても波長が合って、同じリズムで呼吸しているようだった。
 すぐ恋人になって、一緒に暮らし始めたんだ。
 
 明るい、素敵な娘だったよ。
 きりっとしているんだけど、やわらかそうで、微笑む口元が素敵だった。
「愛してる」とか「好きだ」とか、そんな言葉も要らなかった。
 ポチャッと、ふたり、恋の池に落ちちゃった。

 ふたりして、よく抱き合ったものさ。
 若い男と女がやることなんて、みんな同じだからね。
 でも、もう何もないよ。会話もない。

 ぼくはただ、朝、昼、晩と、ご飯をつくって、彼女に食べてもらう。

 スプーンを口に当てると、開いてくれる。
 ぼくはそっと、口に入れる。彼女が咀嚼する。
 美味しいとも不味いとも言わない。
 でも、ぼくには分かるんだ、美味しかったか、不味かったかが。

 彼女が、今どんな音楽を聴きたいかも、どんな話を聞きたいかも分かる。
 そのたびに、ぼくはそのCDをかけてあげたり、「外はいい天気でね、さっきノラ猫が日向ぼっこしていたよ」とか、聞かせてあげるんだ。

 お風呂は、ぼくが担いで、入れてあげる。
 よこしまな心もわかないよ、生きていてくれて、ありがとう、としか思えない。
 だから、ほんとうに愛しい気持ちで、そっと肩を抱きしめたりする。

 おしゃべりしなくても、笑い合わなくても、いいんだよ。
 だって、好きになったふたりどうしで、一緒に暮らすことができているんだから。

 でも、世間の常識は通用しないらしい。
「なんで医者にみせない」って言ってくる。
 そういう友人知人とは、縁を切ったよ。親ともね。

 一日一日、ぼくら、精一杯、生きているのさ。
 初めてだよ、こんなふうに生きてるの。

 外で車椅子を押していると、近所の図々しいおばさんが「まだ若いのに」なんて言ってくるけど、歳の取り方なんて、一人一人違うよね。

 彼女は突然、100歳くらいになったんだ。
 ぼくは彼女と、ずっと一緒にいるよ。

 うん、バイトにも行かないし、介護者を雇うこともない。
 貯金がなくなったら、それまでのことさ。
 残された時間、ぼくら、ずっとこのまま暮らすのさ。

 残された時間── 生きている以上、みんな、残された時間を生きてるんだろうけれど。
 ぼくら、死ぬまで、ほんとに一緒なんだよ。