(9)彼の場合.2

 ひねくれた人間もある。

 それも、自分の思い通りにならないから、「ひねくれる」。
 あるいは「普通は」という、あってないような常識を持ってきて、したり顔にマウントをとる。

 こういった手合いには、生来の性質にかてて加えて、その家庭環境、親との関係、ベタな言い方をすれば「厳しい、厳格な親」のもとに育った経歴の持ち主が、わたしの出逢ってきた異性には多く見られる。

 素直に、その親と対峙した者は、まだ歪んでいない。だがその親に内心で憎悪にも似た感情を抱き、その屈折した心のままに成長した場合、素直な率直さがあさっての方向へ向かう。

 そんな家庭環境における親の「威厳」たるや、みみっちいもので、立派な家を建てたとか、うちの祖父はどこぞの地区の都市開発の現場統括責任者であったとか、単なる「自慢のタネ」を肥大化させた形だけのフレームにすぎない。

 そのような親に、本質的に本質を見抜く直観力を備えた子どもが、反発するのは、健気な、正しい反発のようだ。

 だが、その反発心のベクトルが、自分自身に向かう場合。
 矢がぐるりと回って、そのとばっちりを受けるのは周囲の、しかも近しい人間に限られてしまう。

 このような相手とは、外でつきあう程度で済ませ、けっして家の中に、心の内に上がらせてはならない。
 でないと、こちらが戸惑うばかりで、大変なことになる。
 外側でつきあうぶんには、ちょうどいい。むしろ、悪くない。

 わたしは、この手のタイプとも交流を保っているが、何かとスレ違いが多い。
 こちらが思っている、感じているのと100%、逆の捉え方をしている。
「逆で、違っていて当然だろう」とまで言う。「ひとりひとり、違うんだから」と。

 そのくせ、その違いを自分の中に認めたくないのだ。

 ここまで開き直られると、もう、お手上げである。
 歩み寄る余地のヨの字もない。
 その無自覚さが、そちらへ入り込む初めの一歩さえ奪うのだ。

 だからわたしは彼を外におく。
 そこで、わたしは自室でひとりで踊る。
 頭のカタい彼を空想の中に置き、でも好きなのヨ、と愛好を崩して。
 お酒でもあればさらによい。

 この彼が先日、わたしを好きだと言ってきた。
 だけど、わたしは彼を、内に入れない。
 だから彼と会っている時、ふたりでいながら、あからさまにわたしは「ひとり」だ。

 そして(孤独なもの同士だ)と、彼はわたしを判断した!
 ひとりどうしだから、恋をしよう。ふたりになれる、絶好のチャンス── 彼の口調から、そんな強い意思を感じた。

 ああ、意思とは思い込みである!
 恋は誤解なのだということも、わたしはその一瞬に感知した。

 もちろん、わたしは彼を愛している。
 彼の誤解も思い込みも、わたしは許しているからだ。

「いいじゃないの。わたしはあなたを愛してるんだから」
「いや、うん、でも、あの…」彼は眩しそうにわたしを見る。

「うん。わかってる。でも、ぼくはきみが好きなんだ…」
 その眼のふちには、憎しみもこもっている。うっすら、涙さえ溜めている。

 何が問題だというのだろう! 問題など、問題にしなければ何の問題にもならないのに。
 苦しみを自分でつくって、ひとりでせっせと育てて、大輪の花でも咲かせようというのかしら。

 くだらないと思う。
 そのくだらなさに、真剣になっている彼を、わたしは好きなのだけれども。