(6)女の幸福、男の幸福

 男、女、とヒトククリにしたくないのである。しかし、どんなにその枠組みを、ひと通り取っ払ってみても、
 ── 違うな。
 という思いが、祭りのあとの残骸ころがす風のごとく、かならず最後に残るのである。
 もはや、決定的、致命的に、異質の生き物ではないかとさえ思うのである。

 幸福。たとえば、どんなときに幸福を感ずるか。
 これは、男の女の相違を、如実に表すものではあるまいか。
 女の幸福と、男の幸福は、まったく異質のものではないだろうか。
 もしあなたに、彼氏(彼女)がいらっしゃるなら、どんなときが幸福か、と聞いてみると、いいかもしれない。

「僕は、君といるときが幸福だ。」
 こんな言葉を言われた女は、きっと悪い気がしないだろう。
 悪い気がしないどころか、うっすらと、女もその男を愛しているのなら、心が満たされてしまうかもしれない。
 私も、傍で聞いていて、微笑ましく感じて、ニヤつくだろう。

 問題は、女が、同じ言葉を、男に投げかけた場合である。
「私は、あなたといるときが幸福。」
 これを聞いた男は、はたして、どんな気がするだろうか。私は、きっと青ざめる。
 私(男)は、どうもありがとう、と言って、さっさと身支度を始めて、その場から逃げ出したくなるだろう。

 こんな言葉を言われて、あへあへ口を開けて満足している男がいるとしたら、そいつは、そうとう女たらしか、女を知らぬ堅物か、どちらかのように思う。
 怖い言葉だと、思えるのである。
 女は、刹那的にこの言葉を発しているのでは、ないと思えるのだ。
 ほんとうに、女は一途に、一生涯をかけて一人の男を愛せるのではないだろうか。

 たとえばデートのときなどに、男は、自分は男である、という意識を、うっちゃることができず、持ち続けてしまうように感じる。
 家の中で、居酒屋の中で、ラブホテルの中で、男は、きっとどこかで、男である自覚を、捨てきれずにいる。

 一家の大黒柱たる地位を確立した男であれば、その意識は、ほとんど信仰に近いだろう。
 一家の、あるじ。城の主は、その城を守ることに己の義務を自ら課し、そこに、少なからず幸福を見い出そうとするのである。

 女は、自分は女であるという意識を、持ち続けることができるのだろうか。
 主婦におさまる時、あるいは共働きとして外へ出向く時、女は?
 私(男)には、分からない。
 女を、分かろうとすればするほど、おのれが男であることばかり、思い知らされるからである。

「男と女は、一生、理解し合えないものではないかしら。」
 八十歳位の、あるおばあちゃんの言葉。
「結婚はしても、ポケットは別。」
 ニーチェの言葉。
 おばあちゃんもニーチェも、大変だったんだろうなあ、と、ただ思うのみである。