男、女、とヒトククリにしたくないのである。しかし、どんなにその枠組みを、ひと通り取っ払ってみても、
── 違うな。
という思いが、祭りのあとの残骸ころがす風のごとく、かならず最後に残るのである。
もはや、決定的、致命的に、異質の生き物ではないかとさえ思うのである。
幸福。たとえば、どんなときに幸福を感ずるか。
これは、男の女の相違を、如実に表すものではあるまいか。
女の幸福と、男の幸福は、まったく異質のものではないだろうか。
もしあなたに、彼氏(彼女)がいらっしゃるなら、どんなときが幸福か、と聞いてみると、いいかもしれない。
「僕は、君といるときが幸福だ。」
こんな言葉を言われた女は、きっと悪い気がしないだろう。
悪い気がしないどころか、うっすらと、女もその男を愛しているのなら、心が満たされてしまうかもしれない。
私も、傍で聞いていて、微笑ましく感じて、ニヤつくだろう。
問題は、女が、同じ言葉を、男に投げかけた場合である。
「私は、あなたといるときが幸福。」
これを聞いた男は、はたして、どんな気がするだろうか。私は、きっと青ざめる。
私(男)は、どうもありがとう、と言って、さっさと身支度を始めて、その場から逃げ出したくなるだろう。
こんな言葉を言われて、あへあへ口を開けて満足している男がいるとしたら、そいつは、そうとう女たらしか、女を知らぬ堅物か、どちらかのように思う。
怖い言葉だと、思えるのである。
女は、刹那的にこの言葉を発しているのでは、ないと思えるのだ。
ほんとうに、女は一途に、一生涯をかけて一人の男を愛せるのではないだろうか。
たとえばデートのときなどに、男は、自分は男である、という意識を、うっちゃることができず、持ち続けてしまうように感じる。
家の中で、居酒屋の中で、ラブホテルの中で、男は、きっとどこかで、男である自覚を、捨てきれずにいる。
一家の大黒柱たる地位を確立した男であれば、その意識は、ほとんど信仰に近いだろう。
一家の、あるじ。城の主は、その城を守ることに己の義務を自ら課し、そこに、少なからず幸福を見い出そうとするのである。
女は、自分は女であるという意識を、持ち続けることができるのだろうか。
主婦におさまる時、あるいは共働きとして外へ出向く時、女は?
私(男)には、分からない。
女を、分かろうとすればするほど、おのれが男であることばかり、思い知らされるからである。
「男と女は、一生、理解し合えないものではないかしら。」
八十歳位の、あるおばあちゃんの言葉。
「結婚はしても、ポケットは別。」
ニーチェの言葉。
おばあちゃんもニーチェも、大変だったんだろうなあ、と、ただ思うのみである。