立たせていたもの

 とある一軒家の、キッチンにある床下収納。
 女は、それを大切にしていた。
 自分の全存在が収められる、格納庫のように。

 結婚して3年目になるが、仕事一筋の夫は全くキッチンに立たず、家事はすっかり妻まかせだった。

 彼は、「分業」こそムダのない、効率良く生産的に人生を送るシステム、と疑わない男だった。

 ある朝、彼は二日酔いで台所に倒れていた。
 水を飲もうとして這って行ったが、そのまま眠ってしまったのだ。

 すると、床下から声が聞こえた。
「タスケテ…タスケテ」

 男のような、女のような声だった。
 彼は、飛び起きた。
 ちょうど、彼女も二階の寝室から降りて来た。

「おい…なんか声がしたぞ、下から」
 彼女は、きょとんとして、何言ってるの、と取り合わない。

「いや、ほんとにしたんだって! 助けてって」

 彼女は台所に立ったまま、彼をニラミつけて言った。
「あなたねえ、床下に何があるっていうの。飲み過ぎて、おかしくなっちゃったんじゃない?」

「いや、…開けてみよう」
 彼は、床下収納のコックを上げた。

 小麦粉、缶詰、醤油、料理酒などのストックがあるだけだった。
「もう、恐いこと言わないでよ」
 彼女があくびをしながら言う。

「おかしいなあ」と言いながら、男は真剣そのものだった。
 だが、何度見ても、あるのは生活の備品だけだ。

 声、音を出すものは何もない。
 でも、確かにここから…。
 このマヨネーズの下は?
 トマトピューレの下は…?

 不意に、男は意識を失った。
 女は、砕けた土鍋を手にしていた。

「好きなことばかりしやがって… 好きなことばかりしやがって…」

 女はそう呟くと、涙ながらに叫び始めた。
「わたしの領域に近づくな! 手をつけるんじゃねえ!」

 倒された男は、黙ったまま口と眼を開き、頭から血を流し続けた。