女と男は、カラオケボックスに入った。
この二人、どちらかといえば、女のほうが、男に惚れているようだった。
それを感知していた男は、女の自分に対する好意が薄まらぬよう、デートのたびに努力していた。
(なるべく、無駄口はたたくまい)
以前、女は「無口な人が好き」と言っていたからだ。
(つねに、格闘家のような顔つきであろう)
女は、「ブルース・リーが好き」と言っていたからだ。
斯くして男は、女と会っている間、始終演技をしていた。
そして彼女が満足すれば、自分も満足だった。
だが、女は、(この男はいつもこうなんだ、自分というものがない。臆病な猫みたいに、わたしの顔色ばかりうかがっている。奴隷のような男だわ)と考えていた。
さて、マイクを持つと、男は緊張した。
歌う以上、無口でいられることができなくなったからだ。
格闘家の顔つきも、滑舌のために壊れてしまいそうだった。
男は、極度の不安に陥った。
ブルース・リーが歌うとしたら、こんなふうにかな、と思いながら、「なごり雪」を歌い始めた。
女は、満足した。
男は、ブルー・ハーツを歌った。やはり男は、男らしい歌を歌わねばなるまい。彼女の好みは、そのような男に決まっている…
汗だくになって苦しみながら歌う男を見て、女は、おもしろいと思った。
笑う彼女を見て、男は満足した。
女は、もっとこいつをシビレさせ、疲れさせてやろうと思った。
スピッツを送信予約し、ミスチルのかなりハードな曲を立て続けに入れた。
男は困惑しながら、彼女の笑顔のために歌い続けた。
徐々に男は、彼女の素敵な笑いと疲労のために、プリンのようにとろけていった。
女は、自己との格闘に弱っていく彼の姿に、身ぶるいするほど快感を覚えた。
不意に男はマイクのスイッチを切り、「結婚しよう」と真っ直ぐに彼女を見つめて言った。
前後不覚にとろけ切る前の、断末魔の如き、本心からのプロポーズだった。
女は、(こんなに苦しめ甲斐のある男なら、耐性がある)と判断し、彼の求婚を笑顔で受け入れた。