認められたい願望

 先日、家人が、パート先の職場で「高評価を押してほしい」と言われたとかいう話をしていた。
 あまりチャンと聞いていなかったので(ひどい)、仔細は覚えていないが、職場の人が何かモノを作っていて、それをネットでも売っているとかしていて、だから「ポチッと高評価」を押してほしい、というような内容だったと思う。

 その人はもう働いておらず、久しぶりに職場に訪れたそうだ。
 家人や他のパートさんも、以前その人の作ったモノを見せられたことがあり、「あら、イイですね」とそのときは社交儀礼的に対していた。
 だが今回、ロコツに「評価してチョーダイ」的に言われ、家人はヘキエキした、という話だったことは確かだ。

「うん、ヤだね、そんなこと頼むの。いやらしい。汚らわしい」僕はほとんど生理的な嫌悪感をもって言った。「おれも、ブログにランキングあるでしょ、だから、ああ、〇子ちゃん(家人の名)のパソコンから入って、いいね!押せば…って、考えたことあるけどさ、」

 話の途中で、「えっ! 考えたことあるんだ」彼女が驚いたので、僕も驚いた。
「そりゃあるよ。でも、考えただけだよ。もちろん、やってないよ」
「でも考えるっていうことは…」

 軽蔑の視線が僕に注がれた。そりゃいろんなことを考える、ということを僕は強調した。
 彼女はずっと「人の評価なんてアテにならない。そんなの気にせず、書きたいことを書けばいい」という意見をもっている。僕もそう思う。
 が、つい見てしまう。ブログ村内で、面白い作品はないか、と探したり、自分は今、どの位置にいるんだろうとか。あ、おちた、あがった、なくなった、とか。

「不正をしてランクに入る人もいるみたいだけど、そんなにまでして読まれたいとは思わないよ。そんなことできない。でも、その気持ちはわかる」僕は、自己弁護するように言っていた。

 人から、認められたい願望。
 こうして僕の関心は、実際に不正をしたり評価をほしがる人よりも、その「願望」自身に向かう。自分に確かにあり、多くの人にもある、といわれるその心情。
 それが不正を人に招き、よこしまな行為をさせると思うからだ。

 僕の頭のトブままに書けば、要するに「認められたい願望」、そのために顕示したい自己誇張欲とでもいうような心情は、以下のものとイコールで繋がっている。
 オンナをモノにしたい独占欲。あの国を自分のものにしたい所有欲。
 戦争をおっぱじめるのも、為政者の、歴史に自分の名が刻まれたいとする名誉欲から、始まることもあるだろう…

 いわば「権力志向」だ。自分がエラソーにしたい、そう見せたい、自分を優越の位置に置いて、他の者を見下げたい。
 これは権力志向だ…(その志向は、男性の方が、女性より強いように思える)
 そんな、闇雲な、浅ましい出世欲のようなもの、自意識、他より秀でたいとする欲求。
 そいつが、正しくない道へひとをいざない、みちびいているように見える。

 欲をもつこと自体は、悪ではない。僕なんか煩悩のかたまりだ。
 ただ僕は悪心を実行しないだけで、そうしないことで自分を正当化し、満足することができている。
 意識下で、「悪いことをする人」と自分を比べ、「悪いことをしない」自分をヨシとしている面もある。
 この心の動線は、比べることで持ち得る優越という点で、「悪いことをする」人と、同列のものだと思う。

 悪いことをしてでも、ノシ上がりたいとする政治家も、バイトやパート先で、ボスのようにエラぶりたい人も、この「権力志向」的心情、願欲が、為すわざのように思う…

 戦争を始めたり、殺し合ったりという野蛮な行為を、僕が他人事とは思えないのも、自分に、きっとそうさせる、恐ろしい作用を及ぼす心が内含されているだろうと思える。
 この世界をつくるものが、つくられる災厄が、ぜんぶ「心」に起因するものであるとしたら、今まで繰り返してきたように、これからもずっと繰り返すことになる。

 繰り返していくんだろう── そんな、簡単に変わりゃしない。そう思うと、やるせない気持ちになる。自分を鏡に映し、よくよく見れば、死にてえなぁ、と思う時もある。
 だが、さらによく省察すれば、自分のぜんぶを死なせたいのではない。自分の醜いと思う心を消したいのだ。
 消すのがムリなら、それとうまくつきあっていける術を、いいかげん身につけたいのだ。

 他を巻き込んで、自分の願望を遂げたくない。他は、自分の意のままになりはしないことは分かった。
 ならば、自分を、自分の意のままにすることの方が、まだ、願望が叶えられるというものだろう。
「他者は、変え難し。自己は、まだ変え易し。」
 相手を変えようとするのでなく、自分を変えること。それが愛だ、と、誰かも言っていたような…。