昔々、天も地も、朝も晩も、光も闇も無かった。
あったのは、無。無があるというのもおかしな話だが、あったのだから仕方ない。
そう、「ある」も「ない」も、なかった。だが、なかったということは、あったということでもある。
それも今から思えばの話。なかったもあったも、なかった。
今、ある/ないを判別することができるから、そうしてものをとらえているけれど、そんなものは元々なかった。
一でもなければ、多でもない。無でもなければ、有でもない。それが、コトの始まりだった、と言って、差し支えない。
原初の風景── 風景といっても、スナップ写真のようなフチどられたワクがあるわけでない。
視界に、おさまるものではない。それは、無限にひろがっているように見える。もはや風景でもない。
こちらには到底及びもつかない、見る者の限度をはるかにこえた、掌握も理解もできないものだ。
その存在── 存在というのもはばかれるが… なぜならそれを見る者も、その存在の中に含まれるものでしかないから… それを知る者は少ない。いや、そも、知れるものではない。
あえて言うなら、感得するもの、としか言えない。感じ得たからといって、それでどうなるわけでもない。
だが、それが体験というものだろう。
いくら見聞や知識を得たとしても、それは「知る」ことから脱け出ない。
「知」にとどまるのみだ。「知」だけでは体験にならない。
化粧を塗りたくった能面のようなもので、マネキンと変わらない。
そして人形がものを言う、論理立て、上塗りに上塗りをかさね、いよいよブ厚くなる一方だ。
感じ得たもの── なかに入ってきたもの。その個体にしか感じ得られないもの。
それが体験、と呼べるものだろう。
何も、説明する必要もない。そも、説明もできないものだ。
ただあの無── 原初の風景、風景とも呼べないものに、それが呼応する。
かってに。ひとりでに。意志もなく。
そんな 無を知ったものと、友達になりたいとおもう。
あの個人的な、個体的な体験が気になって仕方のないものと。
何も言わず、何も理解せず。言えないし、理解もできぬ。
それで十分なほど十分だ。
ナンダ、イッパイ、イルジャナイカ?