モディリアーニの線。私ゃ、不審者じゃないって。

 名古屋市美術館で開かれているモディリアーニ展に行ってきた。
 好きな「黒いネクタイの女」は無かったが、首を少しだけ傾いで正面を向く女性達の佇まいは、どれも一貫してチャーミングであった。

 一緒に行った連れは、「モディリアーニって、どこが良いの?」という意見であったが、その絵に込められている、画家の描く線が、ぼくは好きなのである。
 絵は、誰にでも描けよう。
 肝心なのは、その絵に表象される線の1つ1つ、それはただの線であり色であり点であり、その1つ1つに、画家の魂がどれだけ込められているか、という所だ。

 そしてその形どられた点・線・色に、どれだけ、それを観る側の自己の魂が共鳴するか。
 この絵が好き、あの絵は嫌い、の「好き嫌い」の根っ子には、そんな目に見えぬものどうしの対座があるように思う。

 しかし、モディリアーニ展鑑賞の前後の日常、つまり行くまでと帰宅するまでの道程も、肝心なのだ。
 行く途中に入ったラーメン屋「味仙」(みせん)は、美味しかった。
 ウリは、台湾ラーメン(580円)で、雑多な香辛料を駆使して濃厚な辛さを醸し出すのではなく、赤唐辛子のみの辛さのような、非常にシンプルな分かり易い辛さで、美味しかった。

 帰りには、「コメダ珈琲店」でアイスココア(480円)。東京に進出したとかしないとかの、名古屋地方では有名な喫茶店である。
 連れが、「髪どめ」が欲しいというので、PARCOに入る。
 彼女の物色中、ぼくは何もすることがない。

 その髪どめ店の、通路を挟んで軽食店があり、その店の入り口から壁沿いに椅子とベンチが並んでいて、カップルやらが座って休憩していた。
 ベンチに一番近い椅子の1つが空いていたので、ぼくも座って休んでいた。

 その軽食店の、一番入り口に近い椅子には小学高学年か中学生くらいの少女が1人、座っていた。
 ぼくと彼女の間には2つの椅子があり、空いていた。
 しばらくすると彼女がどこかへ行ったので、ぼくは空いたその椅子へ移動した。

 それまでぼくの座っていた椅子のすぐ隣りのベンチにはカップルがいて、そのカップルとぼくとの距離は非常に至近であったため、ぼくは離れたのだった。
 数分すると、その軽食店の従業員の女の子が出てきて、「お待ちですか?」と問うてきた。
「いえ、座っているだけです」と咄嗟に立って答える。

「ここは店のものなので」と、座られては迷惑とばかりに、しかし、にこやかに笑みをたたえながら女性従業員がのたもう。
 あ、どうもすみません。

 ぼくはその軽食店から少し離れた所に立って、髪どめを物色中の連れの動向を見ていた。
 すると、またあの小学高学年か中学生と思われる少女が、それまでぼくの座っていた椅子にやって来て、座ったのである。

 だが、その少女には、店の従業員は何の注意もしないのだった。
 連れが、おいでおいでの合図をし、この髪どめは似合うか、と訊く。
 Yちゃんは綺麗だから何でも似合うよ、といつものように答えたが、ぼくはなんとなく傷ついていた。

 なんであの少女なら座っていてもよく、自分が座っていてはダメだったのだろう?
 やはりぼくは異質者、不審者なのだろうか、などと思いながら、帰りの電車に乗る。

 まぁ、モディリアーニだってアル中で、ほとんど滅茶苦茶な人生だったみたいではないか、などと思ってみることはできるが、なぜあの少女が着席を黙認され、自分はダメだったのだろうとの疑念は、モディリアーニの絵の印象以上に自分の中に残り、いまだに晴れずにいるのである。