「絶対無差別」

 フラミンゴの足は長い。
 長いからといって、切ろうとしたら、彼は泣き叫ぶだろう。
 ダックスフンドの足は短い。
 短いからといって、伸ばそうとしたら、彼は痛がって泣き叫ぶだろう。

 それと同じで、人間にも、それぞれの知恵、能力、性能が個別に備わっている。
 むりに、均等に統一する必要など、どこにもないのだ。

 それなのに、人間はまわりと比べて、均一を求め、あるいはそれ以上であることを望もうとする。
 自分にのみ望むぶんには、まだ無害だ。
 ところが、人の集まるところ、その長はそれを所属者全員に要求する。

 すると、要求された人間は、生来の自分でない自分になろうとしてしまう。
 自分でない自分であることが望まれる! これほどの苦しみが本人にあるだろうか。

 そのままでいいのに。均だの優だの劣だの、相対的なものなど、放っておいていいのに。
 この世に生まれ、生きているだけで、たいへんな力の持ち主だよ。

 横並びの価値観にがんじがらめにされて、狭いオリに閉じ込められたら、生きながらにして死んでしまうよ。
 知恵遅れだの無能だの、人を、そんなふうに見る人間こそが、ほんとうに知恵のない、無能力者だよ。

 …荘子を読んで、自分が体得した考え方は、そのようなものだ。

 ところで、本来の自分が、すでに失われてしまったとしたら。
 どんな自分が、本来の自分だったか、もう忘却の彼方であるとしたら。

 自分に立ち帰れない、家なき子のようだ。
 そんな時は、わたしの部屋に来るがいいよ。
 一緒に、途方に暮れよう。
 と、荘子の弟子が、言ったとか、言わなかったとか。