こどもの目線

 こどもというのは、ひとを、あやしまない。
 多少ヘンな恰好をしているひとを見ても、「ああ、ひとがいるなぁ」と、ただ見ることができているようにおもう。(なんであんな恰好をしているんだろう、おもしろいな、と好奇心のほうが、警戒心を上回るような)

 それを純心、と呼ぶならば、そのような心をもったこどもに、卑劣な行ないをするおとなを、ぼくは許せない、というふうな気持ちをもつ。
 おとなが、おとなに愚劣な行ないをする以上に。

 いつの頃から、ひとを、あやしむようになったろう?
 不信。どうせ違うのだ、というあきらめ。
 あのひとはオカシイんだ、といったようなヘンケンの目。
 いつのまに、この身に備わったろう?

 中学校には「特殊クラス」というのがあって、(この知能というのも、何が知能か分からないが)それが「遅れている」── 要するに「普通」と違う子が、その学級にいた。

 給食のとき、そういう子と席を前にしていると(中学には給食室があって、そこで全生徒が集まって食べていた)、ぼくはその子の何が普通と違うのか、という違いを、探るようにして見ていたと思う。

 バトミントン部でも、特殊学級の子がいて、やはりぼくは同じような目で見ていた。でも、特に何が違う、というものは、なかった。
 食べる時、口が「普通」の子より、少し大きく開くかな、とか、体育着のシャツをみんなはズボンの外に出しているのに、中にしまっているな、とか、そのていどだった。

 考えてみれば、ぼくが「特殊学級」に入ってもおかしくなかったのに、と思う。

 そのサベツ化をはかるような、ある基準というのは、もちろんあるだろう。
 勉強の理解の速度が遅いとか早いとかで、「普通学級」に「遅い」子がいては、ついていけない、とか。

 だが、ぼくだって、授業についていけていたのか、あやしいものだ。
 今だって分数の計算もできないし、割り算の式も立てられない。

 右か左かだって、子どもの頃、鏡を見て、鏡から見ての左なのか、それとも鏡に映っている自分から見ての左なのか、わからなかった。
 今も、この鏡に対して、左右の判断が難しいと思う。

 何も、サベツをなくしましょう、などと、役所が旗に掲げるようなキレイゴトをいうつもりはない。
 それより、あの、こどもの頃の「まったくサベツをしていなかったような意識」が、いつのまになくなってしまったのかな、と、そっちのほうにとらわれる。

 おとなになるにつれて、柔らかかった体もカタクなる。せめて頭くらい、柔軟でありたいとおもう。
 ついているシミは仕方ないが、なるべく洗濯して、きれいな── きれいとさえ意識もしないような、心でありたいとおもう。

 人を、ただ、個人として見る。それを、ただ見る。
 普通とか、普通じゃないとか、そんなもんじゃなく。
 それで、十分ではないか。存在しているだけで、十分ではないか──