自分のやった仕事、書いたこと、表現したもの、取った行動、言ったこと。これらを「認めて欲しい」とする欲望。この我欲のために、努力をするということ。
僕は、そっちの方向、つまり「評価されたい」とする動機から、仕事をしたり自己表現することに、言いようもない自己嫌悪を感じ始めた。
そんなの、ホントウではない、とホントウに感じたからだ。
我欲が、人一倍、強いのだろうと思う。自分の思うこと、願うこと、こうあればいい、こうあって欲しいとする欲望が強いのだ。
そのために、他者との軋轢を生む。人間関係だ。他者が実際どう感じているかはさておき、人との関係の上で気まずさを感得したら、もう食欲も失せ、夜も眠られぬ。
なぜそうなったのか、と、その人と自分の関係をそうさせたもの、運命と呼ばれるが如きものに絶望する。呪いたくなるような気持ちにもなる。
相手でも自分でもない── 否、相手も自分も含めた、「人間」「運命」とでもいう、漠然としたものに押し潰されるような気がする。
「なぜそうなったのか」。答のない問いだ。
存在していること、生きていること、これが全てであるからだ。
こちらこちらの自我があり、先方には先方の自我がある。そのために、人と関わることが煩わしく、いっそ人間のいないところに行きたい、すなわち死にたい、などと望むようになる。
なぜそうなったのかは明白だ── 自我があるため。
また困ったことに、この自我というやつは、自分の自我ではない、他人の自我の存在によって、それと接する時間を持つことによって自分の自我の存在を強く強く思い知らされるのだ。
自分の自我は、他人の自我がなければ、まるで存在しないように存在する。
なんと心細い、たよりない自我だろう!
他人に左右される自分。他人なしには、自分でいられないような自分。
この時、僕は必ず死にたい気分に苛まれる。こんな弱い自分、他人によって安易に、あまりに簡単に左右される自分という存在が、たまらなくイヤになる。
きみはこう言うかもしれない、「だから人間なんじゃないか。きみは自意識過剰かもしれない。だが、自分を意識するということは、まわりを意識するということだ。だから思いやることができるし、やさしくなれるのだ。人の身に、立つことができるのだ」
僕はこう応えるだろう、「その人が、わからんのだ」
するときみは言う、「外の世界は、きみの内面を映す鏡だよ」
「人間がわからない、この世が生きにくい、ああ、ああと嘆くのは、きみ自身が自分をわからず、きみ自身が自分を生かそうとしていないからだよ。
人間は、一人一人、違う。そのことをほんとうに知るべきだよ。違いが許せないから、きみは人間関係上、常に悩んできたんだ。きみは自分が正しいと思い、その正しさが通せない、通らないから世捨人みたいになってしまうんだよ。でも考えてみたまえ。正しさとは、何だったのかね。通したいとした我は、何だったのかね。…」
─── ごもっともだ。きみの言っていることは正しい。でもきみを正しいと僕が思えるのは、僕がきみであるからだ。もしきみが僕でなかったら、きみを正しいなんて思えない。
「ところが、僕も、きみにつくられたものなんだよ。きみの頭がつくった、偶像のようなものなんだよ。
基本、みんな一人なんだ。一人で何やかんやと考えて、一人で悩んで苦しがって、その時間が過ぎればホッとして、を繰り返しているんだ。その時間、きみが一人で悩む時間、一人でホッとする時間に、僕は一役買っているだけなんだよ」
ああ、人の目ばかりに重きを置き、評価されて嬉しがっていた頃が懐かしいよ。あんなにも軽かった、軽快だった頃が懐かしいよ。人の存在が、人の目の存在が、どんなに大きかったことか。
「そんな人間だった頃のきみは、もういない。残像が、きみの頭に残っているだけだよ。
きみは、きみ自身を、きみの望むように持って行くことができる。
他人がきみをどう思うかに重きを置いて生きる時間を、きみはホントウでないとしたのだ。そうではなく、生きたいとしたのだ。
そうして生きていくがいいよ。人は人、自分は自分、というより、一人一人、ほんとうに違うのだ、と。違うというところで、全く同じなのだということを、ほんとうに知って生きるがいいよ」
わかっている。わかっているよ…
「そうして、また迷い、苦しんで、ホッとして、笑ったりして、を繰り返し、繰り返していくのさ」