「自分は無い」

 本来的に、人間に自分というものは無い。

 あるのは、「これが自分だ」としている頭の中の自画像、それをつくり出す想像、幻想、こうありたいとする願望、そうでない鏡の中の絶望、といったもので、これらは全て観念であり思念であって、ひとりでつくりあげた想念、と言っていいだろう。

 また、ひとりでないところからつくられた自分もある。まわりによって「これが自分だ」と思わされたところに生じる自分だ。

 学校の成績、職場の環境、近所の井戸端会議から、「まわりはこうなのに自分はこうなんだ」と、比較することから生じる自分。これも、残念ながら自分ではなく、まわりによってつくられた、まわりと比べなければ「無かった自分」であって、したがって「自分があった」と言えない。
 無かった自分がつくられて、まるであったかのように思わされ、それが自分だと錯覚し、これが自分だと決めつけて信じ込んでいるだけだと言っていい。

 幻想も、思い込めば現実になる。小顔なのに、顔ばかりに注意を払って鏡を見れば、その目には大きな顔に見えてくるのと同じ道理だ。

 その目が、大きな関心をもって見るものが、実際以上に大きく見えてくるのだ。

 ところで、誰もが自分に関心を持っている。他人が全く気にしないのに、自分では他人に気にされている、として、世にも孤独な一人芝居がよく行われている。

 自分が無いのに、その自分に自分が関心を持つ。

 こう書いていて、笑ってしまう。無いものに、一体どんな関心が持てるというのだろう。

 つまり、この自分というもの、本来的に「無い」自分であるからこそ、無自己であるからこそ、この自分というやつに関しては、何でもアリなのだ。

 まったく、イグアナになろうと思えばなれるだろう。七面鳥にもなれる。ウジムシにも、ミトコンドリアにもなれる。

 人間の想像力たるや、恐ろしいほど深淵だ。

 自分を苦しめることも、楽しませることも、想像の中では自由自在であり、そこから幸も不幸も始まって、要するに自分ですべて自分をどうするかということを選んでいるのだ。

 私は不幸だ私は不幸だとジュモンのように唱えている人は、ご本人は否定するだろうけれど、本人が自分の意志で不幸を望んでいるのだ。そう思いたい自分にフタをして、自分は不幸であることに自分の価値を見い出しているのだ。

 大体、苦労とか不幸に、明確な指標、基準など無いのだ。自分が苦労と思い、不幸と思えば、それすなわち苦労になり、不幸になるのだ。そう思わぬ限り、苦労や不幸など、「無い」のだ。

 このように、現実は頭の中によってつくられる。個人個人、一人一人の頭の中によって。

 だから常識もへったくれも、厳密には「無い」ものだ。「多くの人が」などといったって、その「多くの人が」をつくっているのはたった一つの頭なのだ。多くの人が共通に持っている同一の頭など存在しないし、あるのはただ「そう思いたい」「これが常識と思いたい」とする個人の頭だけなのだ。

 したがって、そんな幻想のために本気で悩み、苦しんだりする必要は、全く無いのだ。

 愛すべきは、そんなことに悩んで身を焦がす自分自身であって、苦しみを必要とした自分であって、自分を苦しめる必要など、厳密にはどこにも無いのだ。

 自分を愛するも苦しめるも自分次第であって、そこに人間の自由がある、と言える。

 そしてその自分とは、この自分とは、その正体は、「無い」のだ。

「普通は」とか「みんなは」とか、集団幻想を一人で抱き、自分は違うと孤独になり、悲しくなって死にたくなる。残念なことだ。

 もし生きている間にしか楽しめないのが人生だとしたら、苦しみも楽しく、悲しみも楽しく、自分を楽しませてやりたいものだ。

 何しろ自分以外に、そうできる者はいないのだから。

 そしてその自分も、無い者・無かった者なのだから。

 もし自分があるとしたら、「そういう時があった」という過去形のみに、過去の時間の内にしか存在しないだろう。

 そして時間は常に過ぎ、今もまばたきするうちに過去になっている。

 自分は無い、というより、「今」は常に無い、と言った方が良かったかもしれない。

 あるのは、今を今だと思っている、頭の中だけで。

 そして誰もが死に向かう。

 何という生か、と思う。

 楽しんだ方が、いい。