内なる自然、外なる自然

 梅雨時は、疲れ易く、気分も落ち込み、憂鬱になり易いという。

 気温差、湿気、そして気圧がその要因である、とラジオで気象予報士が言っていた。
 気温は、空気中のもの。1日のうちの、その温度差による影響。
 湿気は、地から上がるもの。気圧は、天から被さってくるもの。

 天、中、地の変化によって、人間の身体および精神は多大な影響を受ける。
 この世界から逃れて生きる術を、われわれは持ちようがない。

 …しかし梅雨。このためか、ここ何十日か、食欲もなく、何をするにもダルく、風邪なのかコロナなのか、微熱と胸のつっかえでほとんど寝てばかりの怠惰な生活を続けた。

 あまりもう「生きたい」という気力もなく、むしろ死にたい、死にたいと、それが唯一の希望のように独りごちる時間も多かった。

 僕の「内なる自然」は、生を拒否したがっていた。

 だが「外なる自然」──身体も「外」のものと考える。なぜなら精神は内にあるからだ──これは、常に生きたがっているものだ。精神がいかに生を拒もうとも、外なる自然は生きたがっているのだ…
 それは「今しかできない、今しか生きることができない」ことを知っている、大いなる自然、人間もこの大いなる自然に抗えぬ、自然の世界の一部、ここから外れて生き得ない、一部にすぎないのだということを思い知らされる。

 ところで、戦争が起きて、もう一年以上が経ってしまった。
 人間として、つまり人類として、絶対に繰り返してはいけない戦争。殺し合うために、存在しているのではない。
 平和な世界…真に平和な世界をつくるために、そこに住まうために、人間は生まれ、考え、生き、個人の生と死を繰り返しながら歴史を、時間をつくっていくもの、と考える。

 人間がなぜ生まれ、存在しているのか?平和な世界をつくるため。これ以外に、僕は人間が存在する理由、人間が生まれてくる理由を知らない。

 悩んで、死にたくもなって、個人個人の中では…少なくとも僕の中は平和ではなさそうだ。今も行われている戦争のことを思えば、心から笑える時も少なくなった。人間として、これでもそのハシクレとして、他人事とは思えないからだ。

 まったく、いずれ死ぬのに、なぜ自分は生きているんだろうと思う。つらいことが多い。この世に自分の生きる場所はないと思ってみたりもする。

 でも、それはあくまで僕の問題だ。僕という個人と、人間という集団、社会、世界と呼ばれる世界は違う。同じであるわけがない。

 そこからズレが生じ、「この世で自分は生きられない」と思ってしまう。この約2ヵ月、体調の不具合に始まって、この身体を動かす気力も、すっかり萎えてしまった。

 戦争をつくる要因、僕も人間として考えた。我欲に、因があると考えた。

 我欲───人から認められたい、れいの「自己承認願望」。自分の思うように世界を持って行きたいとする欲望、自己顕示欲。人間のハシクレとして、自分にあるこの我欲を、消したいと思った。

 そもそも、自分なんて、無いのだ。無いから、その空虚さを埋めるために、世に名を残そうとか、他者の評価を気にして、そこに自分の価値を見い出したいとするのだ。自分は正しいのだとして、「世界」とのズレを埋めるために、「正しくない」世界へ戦いを挑んでしまうのだ。この心理は、戦争を起こす者と、同じような働きをするものと考える。

 自分など、認められなくてもいいのだ。そこから、何か書きたいと思い、実際こうして書き始めるまで、約2ヵ月の時間が必要だった。これが僕の「内なる自然」だったと言える。

 自分自身にさえ、身体と精神の「外」と「内」がある。これが違和感のない、同じ、同一のようなものにある時は、たいてい調子が良い。バラバラになって、かけ離れてしまったような場合、その狭間でもがく。

 トシをとれば、昔と比べる。こんなに体力が落ちたのか、と自分自身に失望する。スマホ、AIばかりが蔓延る世界に、ついて行けないと思う。

 だからといって、それは決定的に致命的なことではない。ただ、世界…時代の流れのようなものに、絶望してしまうだけだ。スマホなんか無くたって、死に至るわけでないのだ。

 外なる自然…ああ、モグラが庭に穴を掘っている、小鳥がさえずっている、ホタルが玄関のガラス越しに光っている、これらの自然が、どれだけ慰安を与えてくれたか。

 生きているのは人間だけでないと知れること、この世界はほんとうに霊妙に、微妙なつながりが連なって、「世界」があるんだなぁ、と、涙ぐんだりする。

 人間によって、僕は何やら悩んできた。人間はこわい。関係なんか持ちたくない。しかし関係を持たずして生きて行けない…

 だが、何も人間どうしだけが関係を持っているのではない。天気が、空気が、虫が、鳥が、植物が…

 そう思うと、不思議な気持ちになった。

 そう、人間どうしだけの、悩ましいだけの、煩わしい世界「だけ」に生きているのではなかった。