私の母は、よく「自分がない、自分がない」と言っていた。
「この人が『これがいい』と言えば、ああ、そうかなぁと思い、あの人が『あれがいい』と言えば、ああ、そうかなぁ、と思い」、「じゃあ自分が何がいいのか、ってなったら、わかんない…」
そんなふうなことを、よく言っていた。切羽詰まったように、嘆くような、悲しい感じで。子どもだった僕は、「いや、お母さん、『わかんない』って自分があるじゃない」と、困り切っていたような母に、笑って言っていた記憶がある。
母は、昭和元年生まれであった。男は外へ、女は内(家)で、…ダンナを支える、それが当たり前の、そんな「社会」の中にいた。と想像する。
とすると、「自我」「自己」とよばれるものは、…だって、「男性のために」日々を、生活を、つまり生きるのが当たり前、というような「世界」の中にいては、滅私奉公と違わない──いわば自分を殺すことに慣れてしまって、それが当然のように思えてくるだろう。
結婚するのが当たり前、女は、まるでそうしないと、存在価値がないかのように見られていた時代?
女にとって、就職先が結婚であったような時代?
そう、女性は、たかが外に行って、そこが社会だ、荒波だ、俺はそこで働き、「お前を養っているのだ」然として、偉そうにしていた──そんな男も少なくなかったろう、そんな男どもに「頭を上げられない」情況にさせられていた、それ以外にまるで生きる術がなかった──そんな想像をする。
僕の父は、大正生まれだったが、「男が今まで、えばり過ぎていたんだ」と言っていた。
一つの、確固たる価値観。オトコはこうすべき、オンナはこうすべき。
はたして、何がその「べき」をつくったのか、原始時代から男は狩猟、女は洞窟(?)で、と分業システムはできていたらしい。
そういう、男にしかできないもの、女にしかできないもの、というのは古来からあったろう。何しろ、男に子どもは産めない。
力仕事は、男のほうができてしまうかもしれない。でも結局、おたがいに、できること・できないことをまかない合って、結局「助け合って」きたに違いない。
そのことは、どんなに時代が変わろうが、時間が過ぎようが変わるまい。
男は、とか、女は、とか、ほんとはどうでもいいのだ。
ただ、その意識を持ってしまう。「僕は男だから」と意識してしまう。なかなか、この意識から抜けきれない。
朝のゴミ出しとか、毎日ひとりでスーパーに買い物に行くとか、洗濯物を毎日干す姿を、近所の人はどう思っているんだろう、とか。そんな、会ったこともないのに、意識してしまう。
オレがもし女だったら、不審者にならないんじゃないか、みたいな場面がある。そう思えることがよくある。これも、僕の意識の問題にすぎない。意識がつくっている、「自己苛み」にすぎないことは分かっている。そんな、他人が僕に、絶大な関心を寄せているわけがない。寄せる者があるとしたら、そいつの方が異常者である。
いや、異常も尋常も、ない。あるのは、自分への関心だけである。これは、かなり万人に共通の、避けられない関心である。ドストエフスキーの言を待つまでもない。人間が終生、関心を持ち続けることができるのは、自分自身への関心だけである。
さて、では、その「自分」が「ない」としたら? 人の意見や人の目に、自分はいつも右往左往している、そればかりの自分であるとしたら?
自分はどこにいるんだろう、自分はほんとにあるんだろうか。不安な気持ちになる。
この不安であることが、生きていることを自分に覚えさせる、つまり、不安であることが、生きることであるらしいのだが。