さて、結局、昨日すれ違った尼さんと、今日、またすれ違うことはなかった。
ちょっと、期待していた。またすれ違ったとして、その姿を見て、僕は喜ぶだけだろう。もしかしたら、失望するかもしれない。
一瞬の、すごい印象。その印象が後を引き、その後の時間も僕は引っ張られた。何がすごかったんだろう、なんでこんなに心に入ったのかと、その一瞬の印象から、あれこれ考えた。
もしもう一度出逢えたら? そこからは、妄想となる。
通りすがりに、「あ、すみません」と声をかける。彼女は立ち止まる。
「あの、…東大寺の方の、〇〇町に住む〇〇と申します」
もう、ムリである。後が続かない。ただ彼女に伝えたいことは… 何もないのだ。
「ブッダが大好きで、仏教の勉強がしたいのです。そのような勉強ができるお寺さんとか、ご存じないですか」
ムリがある。勉強なんか一人でできる。それに、こんなことを本気で訊いているわけでない。ただの接点に、すがりつこうとしているだけだ。尼さん=仏教=自分、ブッダ好き、というだけの。
そう、何も、話すべきことなど無い。つながりたいだけで、そして何かつながったところで、何がどうなるわけでもないのだ。
そう、これは、昨日のあの一瞬だけの「出逢い」なのだ。あのように凛として、ひどい暑さの中を事もなげに、自分の道を淡々と歩くように行く、そのままの姿が美しかった。
あれは、そのままだったと思う。そしてすれ違う時、彼女は笑ったのだった!
もう、出逢えることはないだろうと思う。そういう「出逢い」だったのだと思う。
期待はするが、よしまた逢着したとて、という話である。
そう、あれだけのインパクト、自分に「入ってきた」存在、それだけでもう、と思う。
わかる人にはわかる、というものだったろうか。それとも道行く人、みんなが、ハッとする、そんな存在だったろうか。
どうでもいいが、よくないか、今日、彼女のような歩き方を真似てみた。(「学ぶ」は「真似る」から来ている!)
あのような、凛とした歩き方はムリだった。平然としたふうに、歩けない。あっちいなぁ、と暑さにゲンナリし、鼻の辺りをハンカチで拭きふき、歩いた。
そういえば彼女は、汗もまったくかいていなかったような…。
すごい修行をした尼さんだったのだろうか。
どうしてあんなに綺麗に見えたんだろうか。心… 心がきれいだったから、としか思えないのだが。
そう、一回で、もう充分な、充分すぎる「出逢い」だったんだ。(でも、また逢えないか、と期待はする)