すると、恋というものは、郷愁的なもの、また未来へ向けての希望、その間の現在という、三種の時間を行ったり来たりする心情のことをいうのかもしれない。

 時系列順には、まず初恋というものがある。それ以前に、恋に恋するという、誰でもいいから恋したいという、恋に憧れる季節があるとしても、その対象となる相手が目の前に現れて、恋心をその相手に一心に注げる。

 その人と生涯をともにすることもあれば、別れる場合もある。たぶん後者の方が多い。

 つぎに、またあなたは恋をせずにはいられない。淋しさ、ひとり。ここからの脱出を試みるのか、あの恋に燃えたふたりの世界にもう一度身を置きたいのか。

 おそらく、どっちもありだろう。ただ違うのは、経験をしたということだ。

 ああ恋とはこういうものだったのか、ひとりだったのがふたりになれた、あんな、あんな心地よい、素敵な時間、すべてが輝いて見えるような世界!

 も一度、も一度。過去からの、自分の内なる声、要求から、あなたはまたしても恋をする。最初のとは、明らかに違う自分であることを意識しながら。

 その相手と、一生をともにすることにもなれば、また別れることにもなるだろう。

 二度目ともなれば、前者の場合が、若干多くなる気もする。

 しかし、何回しようが、どうだっていいのだ。

「真剣であることが大切なのよ」寂聴さんも、そう言っていたらしい。

 ただここでの問題は、何度も恋を経験すれば、どこか冷めてしまうのではないかという点だ。真剣に、本気で恋せない、恋ができなくなってしまう、これは悲しいことである。たぶん、別れることより悲しい。

 おそらく、多くの夫婦は、どこかあきらめて、一緒にいるのではないか。

 もうトシだし、若くもない。もう、こいつとずっといたんだから、ずっといるか、これからも。

 そんな、妙なあきらめが働いて、またウワキはイケナイとか、これまた奇妙な倫理観も働いて、なんだか生気なく、あたかも老後を過ごしているような気分で、「仕方なく」一緒にいる── そんな夫妻もいるような気がする。

 この「仕方なく」は全然違う、間違った(何が正しいのかは置いて)諦念だと思う。

「こんな自分だから仕方ない」「こういう相手と自分は合うのだ」「この相手が、自分と一緒に暮らせる人間なのだ」そんなところ、相手と自分の関係、そこをよく見つめて「仕方ない」と思うぶんには、問題ないと思う。

「仕方ない」はまったく仕方ないのだが、その「仕方ない」の根拠、時間的年齢的なものを拠点とするでなく、「この自分」「この相手」と、しっかり見つめること。

 この相手との関係、この相手と関係をもった自分と自分との関係、ここから、「仕方ない」であれば、喜々として嬉しい「仕方ない」だ。

 年収がどうのとか、バツイチだバツ3だ、学歴がどうの家族に変質者がいたとかどうのというのは、まったく恋に関係がない。その「人」をとりまく、単なる要素の一つでしかない。

 本体、本体は、そんなものではない。その本体どうしが恋し合う、こいつがほんとうの恋であり、また愛に変わって行ける、貴重きわまりない種子であると思う。

 そう、真剣に思う。