しかしドストエフスキーのキリーロフはこう言っている、「私は死なない」と。
なぜなら私は私の死を自覚する時、私は既に死んでいるのだから、その死を知ることはない。よって、私は死なないのだ、と。
言葉はそのままでないが、こういうニュアンスでキリーロフは「私は死なない」と断言してみせた。
だがドストエフスキーはその後、このキリーロフが狂気のように、彼を殺しに来た人物に襲いかかるようなことをさせるのだった。
「死なない」と言っておきながら、死への恐怖がキリーロフにあった。
「悪霊」という小説の登場人物だが、このキリーロフ、私は好きだ。あきらかにおかしな人物なのだが、どこか憎めない。友達、というか知人の誰かの奥さんが産気づいた時、産婆さんがおらず困り切った状況の時、「何なら僕が(産婆の代わりをしてあげよう)」とか言う。
その友達というより知人は、「いや…」ともちろんキリーロフを拒絶する。頭のおかしな人間に、産婆の代わりなどしてもらいたくない。当然だ。
だが、こんなユーモア、キリーロフ自身はいたって真剣であろうけれども、こういう妙な真面目さ?が、私は好きだ。無責任、とも言えるが。
ところで、私は一昨日、整体に行ったのだ。どうにも体調がすぐれなかったので。
いろんな話を施術されながらするわけだが、「生きる意味」のようなことの話もした。その整体医にはある程度の結論というか答は出ていて、「ロールプレイングゲームのようなもの」という。
ファミコンの例でいえば、まぁ電源を入れ、カセットをセットし、画面を見てコントローラーを「私」がコントロールする。
この「私」がつくるのが人生のようなものであり、だから画面に映る主人公── スライムを倒したりお宝を手に入れたり洞窟の中で迷ったり── が「生きる」ということであり、つまりシナリオは「私」自身がつくっているのだ、と。
確かに、どこか私(かめ)には、どんなに真剣に何か考えているつもりでも、どこか自分に余裕のような、「もうひとりの自分」が私のそばにいるような気がする時がある。この「真剣になる」自分の、すぐ横に。
一心不乱に熱中しているような時も、どこか冷めている自分がいる。これが、彼(整体医)の言う「コントローラーを持つ自分」であるかもしれない。
あるていど人生、生きたりしていれば、だんだん自分というものを知ったつもりになる時がある。あ、俺はこういう生き方をする人間なんだ、と。
はたして、それがホントウにそうかは分からない。ただ、自分のすること・できること、できないことが、狭まってくる感じがする。これをもっと大きく見てみると、生まれた時からその人(個人個人)のできること・できないこと、その性能は決まっているかのようで、あとはその「確認」作業である、と換言できるかもしれない。
そう考えると、生きるということ、これは各々、ひとりひとりが自分の人生をつくってるもの、と言えるだろう。つくらされるものではなくて。
が、私に気になるのは、なぜそこに、ここにだが、私がいるのか、ということだ。なぜ私はコントローラーを手にしなければならなかったのか、ということだ。
個人的な話をすれば(個人的以外に何があるのかと思うが)、私の長兄は私が生まれる前年に亡くなっている。私は「生まれ代わり」みたいに生まれ、育てられた。
長兄は学業も優秀でスポーツも優秀で、とにかく優秀な人であったらしい。学校ぎらいだった私は小学生の頃、「ああ、お兄さんは、前、生きていて、いっぱい学校に行って、いっぱい勉強したんだ。だから今度生まれた時は(私だ)、学校なんかもういいや、行かない人生を歩んでみたいって思ったんじゃないか、だから自分は学校が嫌いで行かないんだ」と考えたりした。
もちろん、いのちなんか分からない。生まれ代わりも、わからない。だが、もし、いのちがめぐる── 人生は一度しかないと言われるが、その一度が終わった後、もし違う自分としてもう一度(前の記憶はないにしても)、この世に生まれたとしたら、違った人生を歩みたくなるものではないか。
そんなふうにも、今思ったりする。半分くらい。
キリーロフから話が逸れたが、このキリーロフも、どこか余裕のようなものがあったようにも思える。本人は至って真面目で真剣なのだが、どこか余裕があるように私には見えた。(「常人」よりかは、その余裕、薄めでありそうだったが)
だが、自分が殺されるかもしれない、というその時は、狂気のようにその相手に襲いかかったのである。
その時のキリーロフは、紛れもなく真剣だった。余裕なんか、全くなく。
キリーロフにして、そこまで真剣にならざるをえない「死」。
ドストエフスキーはキリストをほんとうに信じていたそうだが、死について、どう考えていたんだろう。宗教的な「神」を信じられない私には、よく分からない。ただ、キリーロフの心理は、わかる気がする。