眠れそうにないから、あきらめた。
深夜1時40分。夜中に書くものは、ろくでもないだろう。昼間も、たいしたことを書いていないから同じことと思おう。
私が今この家にいて、最大の悩みは回覧板なのだ。回覧板は順序通りに、10軒ほどを回って来る。私の家のポストに入れてくれる人のことを思うと、私は憂鬱になるのだ。
というのも、私の家は、ここだけ土手沿いにあって、舗装もされていない、土がむきだしの道なのだ。橋のたもとから左に曲がって、50m位。雑草はあるし、鹿のフンもある。雨の日は、ぬかるむ。こんな道を、わざわざ回覧板のために歩いて来なければならない人のことを思うと、いたたまれない気持ちになる。
申し訳ないと思う。しかも、その回覧板たるや、たいしたことは書かれていないのだ。ただハンコを押して、私は次の家のポストへ行く。橋に出て、そこからは舗装された綺麗な道。私の家は、ほんとに同じ町内とはいえ、離れ小島のような感がある。
町内会に入るまでは、こんな回覧板は回って来なかった。回す人も、そんな義務もなかった。ただゴミを出す際、町内会費を払い、町内会に所属しなければ出してはいけない(所定の場所にゴミ収集のカゴがある)。それだけの理由で入ったのだった。
まったく、回覧板なんかどうでもいいのだ。それなのに、わざわざ来るのもイヤであろう、人の迷惑に、私の家がここにあり、私がここにいるがために、人の迷惑になっている(これは厳然たる事実のように思える)。
このことが、私はほんとに憂鬱なのだ。笑わば笑え、読者諸君。私は、こんなことで簡単に憂鬱になれる人間なのだ。
町内会費は払いますから(確かもう来年分も払っている)、回覧板は要りません。道がよくないですし、〇〇さんの足が汚れてしまいます… そんな理由で、回覧板を断れないものかと思う。きっとこんなことを理由にしたら、〇〇さんは「大丈夫ですよ」とか言うだろうが、それは本心ではないように私には思える。綺麗好きな感じだからだ。鹿のフンなんか、イヤだろうと思う。
私が道を掃除する? 毎晩鹿は来ているし、毎朝掃除を続けられる自信がない。雑草は、短いが、やはり綺麗好きな人は気になるだろう。そして雨の日は、どうにもならぬ。
この憂鬱が極端化すると、驚くべきことに、私は死にたくなるのだ。もちろん、これだけが理由ではないが、これはそんな小さな理由でもない。
ここからは、まったく想像なのだ。
日本全国、一軒家を構えれば、回覧板は回って来るように思える。しかもその内容は、どうでもいいことに決まっているのだ、きっと。この無意味さのようなもの。それを義務のようにすること…
マンション、アパートに住めば、回覧板なんか回って来ないだろう。その代わり、どんな隣人(しかも壁一枚隔てただけの)、上の階、下の階にどんな人がいるのか、これは住んでみなければ分からない。
不安。私には、この世のどこにも、安住の地がない、とでもいう…。
私は、とにかく人に迷惑をかけるのを、とにかく恐れる。今まで、きっとたくさん、人に迷惑をかけてきたからだと思う。だから人から迷惑行為をされるのも恐れる。
まったく、ばかげた話だと思う。たかが回覧板のために。
「たかが」と思うから、よけいに悔しい。こんな自分、と思えるからだ。こんなことで、こんなになる自分。
いやいや、何か別の理由をつけて、回覧板を家に回して来なくて済まないものか。「意味のないものです、うちには」とは言えない。ほんとに、意味はないのだが。
また、三、四日間、家を留守にすることもある。その場合、私の家のポストにずっと回覧板がいてしまうことも気になる。次の家に回さなければいけないのに。たとえば一ヵ月、海外旅行なんかに行ったら(絶対ないが)、回覧板はどうなるのだろう? 町内会長に、その旨を伝えなければならないのだろうか。
「この家の住人は無事に生きている」ことの証左が、回覧板であるのかもしれない。しかし… 不自由な気がする。そう、この「気」が、義務のようで… しかもたいした義務でないという… 憂鬱さに、拍車をかけるようなのだ。拍車をかけているのは、他でもない、この自分なのだが。