私の「神」は

 最近ここに書いていて気づいたのだが、「神は細部に宿る」その神を、私は好んでいるようだ。

 切ろうとしていた庭木の枝に、カタツムリがいたとする。すると、もう私はその枝を切れない。アゲハの幼虫がいても、切れない。見て見ぬふりをして切ればいいのだが、きっとそれは殺してしまうことになる、と考えると、もうダメなのだ。それを見たら、その枝を切ることを断念する。

 知らないで切って、あとで知ったら、とても後悔する。

 これは近所迷惑になると思ったら、否が応でも切るが…。

 そんなこと言ったら、アリなんかも、気づかず踏んで殺しているかもしれない。いや、してるだろう。でも、できればそういうことはしたくない。べつに、ホトケのココロ、なんてものではない。ただ、後味がとてもイヤなのだ。

 こないだも、道の側溝でアゲハが死んでいた。何年も前に、工場の中で死んでいたアゲハを思い出した。あの時も思った、なんでこんな所で死んでしまったんだ、と。

 なんでこんな所で死んでしまったのか

 大袈裟でなく、涙ぐんだ。きれいな、アゲハだった。これがゴキブリだったら、きっと何とも思わないに違いないのに。いや、ちょっとは思うけれど…

 これは大袈裟だが、生きていくのはつらいなぁと思う。鳥や豚、(牛は滅多に食べない)魚にしても、何だかんだ、いのちをいただいて、私は暮らしている。

 先日、「イルカを守ろう」みたいなデモ行進、10人位の行進を見た。警察に守られ、通りを闊歩していた。曰く、「イルカには家族がいます」「家族からイルカを引き離すな」「水族館で芸を仕込まれる」「いのちを守ろう」「子どもたちにいのちの大切さを伝えよう」

 ばかかと思った。本気で失笑した。サンマはどうなんだよ、じゃあ。アジは? かれらだって、いのちだろうが。研究が進んでいないだけで(サンマの生態はいまだに謎が多いらしい)、ヒラメにだってタコにだって家族があり、引き離されているかもしれないじゃないか。なんでイルカのいのちだけ、そんな。いのちの大切さ? なんでイルカだけ?… そんなんで、何を伝えられるってんだ、子どもたちに。

 まぁいいや。何が言いたかったんだっけ。ああ、神か。

 神ねえ。眠れない寝床で考えていたのは、「理解できないものに神は宿る」=「神は理解できないから」だ。

 私には、理解できないことが多すぎるから、しょっちゅう神を見ているような気分になる、ということだった。

 午前3時15分。眠れそうにないが、今日はここまで。