私は、何を書くべきなんだろう。
私自身のことを書く? 他者と自己の間にある物── 繋ぐ関心、興味、「媒介」をよすがに、日常生活のようにその接点から会話をし、関係をするように書く?
人とふれあうように。
でも、私はひとりだ。他者と関係を持つ、その前に、私は私との関係を持つ。
私はひとりで机に向かっている。誰もいない。他者とは? 自分に向かっているだけじゃないか。
どうしたらいいんだろう。何を書けば、何を書けばいいんだろう。
北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬という。
鵬の背の広さは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空たれこめる雲と区別がつかないほどである。
この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえると見るや、南の果ての暗い海をさして移ろうとする。
この南の暗い海こそ、この世に天池とよばれるものである。
斉諧というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。
「鵬が南の果ての海に移ろうとする時は、翼をひらいて三千里にわたる水面を打ち、立ちのぼるつむじ風に羽ばたきながら九万里の高さに上昇する。
こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである」
荘子の内篇、最初の文面。
ふふん。面白いなあ。六ヵ月、飛び続けて、初めて到着。そして憩う。やっと憩う。
鵬は、私の内面だ。外面でもある。
死であり、生でもある。
私は変化した。変化する。
動く。自殺? 違う。天池、… また魚へ還る?
鯤は鵬となり、自らの内、内面、水面を荒れ立たせ。
南の果ての海を目指す。またしても暗い海だ。
六ヵ月羽ばたいて、やっと憩う。
自殺ではない。いや、べつに自殺でもいいんだが。
生きるということ、これが、きっと生きるということだ(?)。
内が荒れれば、外も荒れる。そのように見える。自分の大海から、南の果ての大海へ移ろうとする。
その間が、生そのもの… それは自殺でも他殺でも自然死でも、なんでもない。
それが生というもの。生きている、存在する間の、時間そのもの。
(引用、「世界の名著」4 老子荘子、森三樹三郎訳)