逍遥遊篇(十)

 恵子が荘子に向かって言った。

「私の家に大木があるが、人はこれをちょと呼んでいる。その太い幹は、こぶだらけで、墨縄すみなわのあてようがない。その小枝は曲がりくねって、規矩さしがねも役に立たない。

 だから、この木を道端に立てておいても、大工も振り向かぬ始末だ。

 ところで、お前さんの議論も、この樗の木のようなもので、大きいばかりで無用のしろものだ。誰も振り向いてくれる者はないよ」

 すると、荘子が答えた。

「お前さんは狸猫やまねこというものを知っているかね。地に身を低くして伏せ、遊びに出てくる鼠をうかがっている。いざ獲物を見ると、東西にはねまわり、辺りの土地の高低も眼中にない。あげくの果ては、罠にかかったり、網に飛び込んで死ぬ始末だ。

 これと反対なのは野牛で、その大きさは天をおおう雲ほどある。これは確かに大物で、罠や網にかかる心配はないが、そのかわり狸猫のように鼠をとらえることはできない。

 お前さんは、せっかく大木をもちながら、役に立たないことを気にしておられるようだ。それなら、いっそのことこれを無何有むかゆうの郷、広漠として果てしない野原に植えて、その傍らに彷徨さまよいつつ無為に過ごし、その木陰でゆうゆうと昼寝したら、どうかね。

 斧や斥で命を落とす心配もなく、危害を加えられる心配もないものは、たとえそれが無用のものであっても、少しも困ることはないよ」

 ── お気楽に、生きなさいよ。

 荘子から、そう言われている気がしてならない。

 その確認のために、ぼくはここに引用を繰り返しているし、言い聞かせている。自分に。

 まったく、生きていたって、ねえ。

 でも、生きているんだからねえ。