斉物論篇(十四)

 昭文しょうぶんが琴を鳴らし、師曠しこうが杖で地を叩きながらふしをとり、恵子けいしが机に寄り掛かって議論をしているのを見ると、この三人の才能は、それぞれ名人の域に達していることが分かる。

 いずれも才能のすぐれたものであり、だからこそ、その名が後世の書に伝えられているのであろう。

 ただ、この三人はその道を好むと同時に、自分の技能が他人より優れていることを意識するところがあったし、その道を好むと同時に、これを他人に明示しようとする心があった。

 このように、彼らは明示すべきでないものを、ことさらに明示しようとしたために、恵子の場合は、堅白けんぱくの論というような、わけのわからない議論で終わってしまったし、また昭文の場合は、父の業を継ぐだけに終わり、生涯その業を完成することができなかったのである。

 もし、このありさまで道を完成したと言えるのであれば、私だって道を完成していることになろう。

 またもし、それが道を完成したと言えないというのであれば、私をはじめとする凡人はすべて、道を完成することはできないということになろう。

 このように他人に明示できるような道では、真の道を完成することは不可能である。

 だからこそ聖人は、暗くて定かでない光を放つことを念願とするのである。

 そしてこのことを、是非の対立を越えた明らかな知恵で照らす、というのである。

 ── うん。20年近く前か、飲み屋で友達に、「成功とか失敗とか、勝ったとか負けたとか、有名になるとかならないとか、どうでもいいと思うよ。大切なのはそんなことじゃなくて…」みたいなことを言ったら、「そういうのは、かめさんが有名(勝ち組?)になってから言ってほしいですね」と言われた。

 彼は、自分で会社を始めようとする感じで、かなりのハングリー精神のようなものがあったと思う。いい男だった。

 ただ、ぼくらは当時同じ期間従業員どうしで、ぼくはどんな雇われ方でもよかったし、そんな高収入を得ようとか、立派な立場になろうとか、ほんとに考えてもいなかった。

 だが、やっぱり友達は(その時限りの友達だったが)、「情けないですよ、自分が期間従業員なんかしてるのが。いい大学を出たのに、こんな仕事してる人もいますし…」みたいなことをいう。

 ほんとに、何のための大学かと思う。就職のために、「いい」会社に行くための、それだけのための四年間かと思う。

 自分はこんなに凄いんだとか、何か自分に才能があるとして、それをいちいちプライドにするというのは、やっぱりあさはかだと思う。

 学業の成績が優であったとしても、それは学業という中での「優」にすぎない。それイコール頭がいい、と、どうしてなるのか分からない。分かるけど。

 いろんな場所と時間の中で、頭なり心なり、何らかの「よさ」が出るだろう。

 べつにそれが、よかろうが、わるかろうが、はっきり言ってどうでもいい。

 私は私の道を行く… そんな、平坦な言い方で、自分の時間としてこの世界を生き、時が来て死ねれば、もうほんとに充分と思う。

 そんなふうにしか、自分は生きれないとも思う。

 今だって、どうしたわけか一緒に暮らしている人がいて、どうにかなっている。つまり、生活ができている。

 あれほど死にたい死にたい思っていた自分は生き、まるで死にそうになかった人が死んでしまったりする。

 全く、わからないことだらけだ。

「完成する」などということは、ぼくには無理だ。せいぜい、生きて、死ぬこと。これだけしか、できそうにない。

 でも、それさえできれば、…なるべく安穏と、おだやかに、微笑でも出来て死ねたら、それを想像しただけで幸せな気持ちになる。

(もっと細かく見れば、もし自分が「勝ち組」みたいになってしまったら… 今時、まだそんな言葉あるのか?… 精神が不安定になる気がする。今の不安定さで十分だと思う。それに「成功」などしたら、怖い。そんな自分に耐えられない。「他者から評価されて得意になる自分」が目に見える。そしてそんな自分がイヤになり、どうしていいか分からなくなるだろう。それだけ、他者によって左右される、弱い自分であるということだ)