いま私がここで何事か言ったとする。その時、その言葉は、言おうとしている事実に接近しているであろうか。
それとも接近していないであろうか。
接近していると言っても、接近していないと言っても、正確に事実を表現していないという点からいえば、結局似たようなものである。
とするならば、はじめから何も言わなかったのと変わりがないことになる。
だが、ものは試しだから、一応言ってみることにしよう。
万物には、その「はじめ」があるはずである。
「はじめ」があるとすれば、さらにその前の「まだはじめがなかった時」があるはずである。
さらにはその「『まだはじめがなかった時』がなかった時」があるはずである。
また、有があるからには、まだ有がなかった状態、すなわち無があるはずである。
さらにその前に「まだ無がなかった状態」があるはずである。
さらにはその「『まだ無がなかった状態』がなかった状態」があるはずである。
このようにして、言葉によって有無の根源をたずねようとすると、それは果てしなく続き、結局その根源を突き詰めることはできない。
それにも関わらず、我々は確実な根源を知らないままに、いきなり有とか無ということを口にするのである。
このような不確実な有無の捉え方では、その有無の、どちらが有で、どちらが無であるか、分かったものではない。
ところで、私は今、このようなわけのわからないことを言った。
それというのも、言葉というものが、物事の確実な根源を捉えることができないためである。
とするならば、私が言ったという事実も、果たしてあるのか、それともないのか、分かったものではない。
── おもしろいなあ。まったく、そうだと思います。
いや、これについては、何も言えません。