斉物論篇(十五)

 いま私がここで何事か言ったとする。その時、その言葉は、言おうとしている事実に接近しているであろうか。

 それとも接近していないであろうか。

 接近していると言っても、接近していないと言っても、正確に事実を表現していないという点からいえば、結局似たようなものである。

 とするならば、はじめから何も言わなかったのと変わりがないことになる。

 だが、ものは試しだから、一応言ってみることにしよう。

 万物には、その「はじめ」があるはずである。

「はじめ」があるとすれば、さらにその前の「まだはじめがなかった時」があるはずである。

 さらにはその「『まだはじめがなかった時』がなかった時」があるはずである。

 また、有があるからには、まだ有がなかった状態、すなわち無があるはずである。

 さらにその前に「まだ無がなかった状態」があるはずである。

 さらにはその「『まだ無がなかった状態』がなかった状態」があるはずである。

 このようにして、言葉によって有無の根源をたずねようとすると、それは果てしなく続き、結局その根源を突き詰めることはできない。

 それにも関わらず、我々は確実な根源を知らないままに、いきなり有とか無ということを口にするのである。

 このような不確実な有無の捉え方では、その有無の、どちらが有で、どちらが無であるか、分かったものではない。

 ところで、私は今、このようなわけのわからないことを言った。

 それというのも、言葉というものが、物事の確実な根源を捉えることができないためである。

 とするならば、私が言ったという事実も、果たしてあるのか、それともないのか、分かったものではない。

 ── おもしろいなあ。まったく、そうだと思います。

 いや、これについては、何も言えません。