斉物論篇(十六)

 いま、有と無の差別さえ、その実在が疑わしいことを述べた。

 とするならば、大小の差別などは、もちろん問題にならない。

 だから天下には、秋のけものの毛先の末より大きいものはなく、泰山たいざんは小さいものだとか、幼くて死んだ子どもが一番長生きをし、七百歳まで生きた彭祖ほうそは若死にをした、などという逆説も可能である。

 さらに突き詰めて言えば、永遠の天地も、我が束の間の人生と等しく、数知れない万物も、我一人に等しい、ということもできよう。

 このようにして、すべては一つである。一つであるとすれば、対立差別を本質とする言葉を用いて表現することは不可能であるから、「一つである」ということも、差し控えなければなるまい。

 しかし「一つである」ということを表わすには、言葉なしでは済まされない。

 もし言葉で表現することが避けられないとすると、「一つである」という事実と、「一つである」という言葉とが生まれ、あわせて二つになる。

 この二を、最初の未分化の一を合わせると、三になる。

 このようにして際限なく数が加えられて行くと、ついには計算の名人でも数え切れないほどになる。

 まして凡人の手には負えなくなるであろう。

 このように無から出発して有に向かって進んでも、三になるほどであるから、まして最初から有から出発して有に向かって進むならば、無限の多の世界に彷徨うほかないであろう。

 多の世界に向かうことをやめよ。

 是非の対立を越えた、自然のままの道に従うがよい。

 ── いやいや、何とも。まいりました、という感じだ。ほんとに考えてるよなあ。

 前に、「詭弁」について書かれていたのがあったけれど、これはそういうものでないよ。

 他者に対しての弁ではない。追求しているんだよな、存在というものを(?)。「ある」ということを。また、「ない」ということを。

 言葉に対しての嘆き、「泣き」も入っていたりして。

 荘子は、何も言いたくなかったんだろうなあ。でも、言わずにもいられなかったろうか。

 そう、考えるって、こういうことのように思う。全く、言葉はもどかしいねえ。

 でも人間に生まれてきた以上、この言葉で、たいていの関係が壊れたり、生まれたり。

 言葉がなくたって、そんな、不自由か? あったって、なあ。不完全なくせに。

 でも言葉、楽しいよ。ありがとう、これを書いてくれた「荘子」…