徳充符篇(二)

 常季じょうきは続けて尋ねた。

「あの人の身の修め方をみますと、自分の知恵によって、自分の心を完成させ、自分の心によって、自分だけの不動心を完成させたにすぎません。

 つまり、すべてが自分個人のことに限られております。それなのに、なぜ多くの人々が彼の周囲に集まってくるのでしょうか」

 孔子は答えた。

「人は流れる水を鏡にしようとしないで、静止した水を鏡として、自分の姿を映すものである。ただ自ら静止するものだけが、静止を欲するものに静止を与えることができるのである。

 地上に生命を受けたもののうち、ただ松やかしわだけが、夏冬にかかわりなく青々としているように、天から生命を受けたもののうちでは、ただしゅんだけが正しい生を得た人であると言えよう。

 その舜が万人から聖人として慕われるのは、なぜか。ただ幸いにも舜のように正しい生を受けたものだけが、もろもろの生あるものを正すことができるのである。

 天から受けた正しい生を、そのはじめのままに保っていることを示す証拠は、その人が何ものをも恐れないという事実である。

 たとえば、勇士がただひとりだけで、大事のうちに突入して、益荒雄ますらおぶりを発揮するのも、それである。このように、ただ名誉ほしさに一心になるものでさえ、何ものも恐れない勇気を示すものである。

 ましてや、天地を支配し、万物を自分のものとし、自分の肉体を仮の宿とし、自分の耳目を形だけの飾りと見なし、知恵の分別を否定して、すべてを同一であるとし、その心は死を超越しているものにいたっては、もはや何を恐れることがあろうか。

 たとえ死が免れえない運命であるにしても、かれは吉日を選んで、ゆうぜんとして昇天することであろう。

 とするならば、王駘に弟子が多いのは、人々のほうから慕い集まってきたのである。かれほどの人物が、他人のことなどを気にするはずはないではないか」

 ── つまるところ、死。死ぬことが、怖いんだな、俺は。わけのわからない死は、わけのわからない生と同じだのに。不安。不安、あらゆる不安は、窮極のところ、死に繋がっている気がするよ。

 死と生は同列だ。死は生がうまれるところ、生は死なくして、ないものだ。死によって生がうまれ、生によって死が生じる。

 それなのに、どうして俺は生と死を分けるのか。分けてるんだよ、結局。事実と真実の違い? 死した人とは、もう会えない。死した人は、いつもいた場所に、もういない。それは死に違いない… ほんとうか? 「いない」ということ、これが死なのか? 違う気がする。

 いないということは、いないということなのだ。死は、違う。死は、そういうことではない。

 ほんとうに、死はあるんだろうか。ぼくの数少ない友達は、「死は、ないんじゃないかな。だってそのひとが心の中に生きていれば、生きているということになる…」と言った。

 そうだと思う。実際、そうなのだ。

 いない、ということと、死、は違う。

 すると、生、というのは、…? いや、生というの、だ。