応帝王篇(四)

 陽子居ようしきょ老聃ろうたんに会って、話しかけた。

「ここにひとりの人間があり、機敏で粘り強く、物事を見通す力にすぐれ、しかも道を学んで飽きることがないといたします。このような人間は、明王に比べることができるでしょうか」

 すると、老聃は答えた。

「そんな人間は、聖人どころか、せいぜい小役人か技術屋で、身を労し、心を疲れさせる仕事をする人間だよ。それに、なまじっかな技能は、身の災いのもとだ。

 虎やひょうの皮にある美しい模様は狩りを招くもととなり、猿の敏捷さと、たぬきをとらえる犬の特技は、人間につながれて不自由な身となる元となる。こんな連中が、どうして明王と比べものになるものか」

 これを聞いた陽子居は、思わず居ずまいを正して問い返した。「それでは、明王の政治とはどのようなものか、お聞かせ願いたいと思います」

 老聃は答えた。

「明王の政治というものは、その効果が広く天下に行き渡りながら、しかもそれが為政者から出ていることに気づかせることがない。

 また、その教化は万人に及びながら、民はそれと気づかず、したがってその教化をたよりとして慕うこともない。

 つまり明王の政治は、存在しながらも、誰もその名をあげて指摘するものがなく、万人を自然に喜ばせるものだ。このようにして明王は、人知では計り知れない境地に立ち、いっさいのとらわれのない世界に遊ぶものである」

 ── ほんとのことを言ってるんだよな、荘子は。それを、どう生かして行くか、なんだよな。

 いや、生かそうとしなくてもいいんだろう。生きている、それだけでいいんだよ、と。

 心、なんて、美化されがちな言葉だけど、心、すてることも大事だよ。

 心を見るって、そこから離れないと見れないからなぁ。

 見るという時、ただそこにいるだけ。とくに何をするわけでもない。ただ見てるだけだ。

 過ぎ行くいっさいの、傍観者。でも、そこに遊ぶ人。なくしたはずの心、喜んで、遊ぶ人。

 忘れたことも忘れ、ただあるがままを受け容れる、虚ろの中に遊ぶ人。

 パラダイスはそこら辺かな。自分でつくる、パラダイス。

 ひとりひとりが、つくってく世界… つながっていくのかな。