ひとりでしか

ひとりでしかやれないこと。
ひとりだから、やれること。
何も団体、集に合する必要は特にないこと。

1990年頃か、あの頃は日本は新興宗教ブームだったそうだ。
「幸〇の科学」とか「オ〇ム真理教」とか。

YouTubeで「朝まで生テレビ」をチラ見したら、その教祖様(!)も出演していた。
適当に見ているうち、言葉は悪いが胸糞悪くなった。

「瞑想」という言葉が使われていた。それは「修行」なのだと、あの地下鉄サリン事件を起こした団体の教祖様はのたもうていた…

厳しい修行をして、それをクリアした人がナンタラカンタラとかいう称号をもらえ、「上層部」へ行けるという話だった。

「科学」の方では、教祖様は不在だったが、幹部の立場みたいな人が言うには「(教祖は)シャカの生まれ変わりで、難しいその教えを現代的に解り易く説く人」であるそうだ。

教祖… そんな、崇めるものは要らないんだよ、と僕は思った。
修行なんて生きてるだけで修行なんだ、わざわざ自分を苦しめるなよ。

ましてコイツは上達した、エライ、とか、アイツはヘタだ、ダメだとか。
そんなことで「階級」をつくるなんて。

自分なりに、せいいっぱいやれば、それでいいんだよ。

ただ、あの真理教とかいうのも瞑想を教義にしていたんだと思うと、今自分のしている瞑想がそれと被って、いやな気持ちになった。自分の中にも宗教色が、何か胡散臭さが感じられて。

しかし集団になると、優だの劣だの、どうして上下の関係が発生してしまうのか?

自己満足するなら、ひとりだけでできる。ひとりでしかできないものだ。
そこに、他者との比較は持って来なくてもいい。

宗教批判するつもりはない。
ただ、なぜこれが善だあれが悪だ、こっちは正しいあっちは間違いなどと、心が動くのか。

何か「他」のものを信じる、依存的になるってことは、結局そういうことだ。
なぜ「自」を後ろにおき、先ず教祖様(うわ、やだやだ)ありき、になってしまうのか。

集団、団体になれば、心の問題も、個人、ひとりひとりにしかない心、その尊重すたい心も、十把一絡げに染められてしまう。

形じゃないんだよ。
いのちに形なんかないんだ、もともと。

誰にも気づかれず、ひとりで瞑想していたいよ。
でもこうして書いてる矛盾。
書くぐらい、いいんじゃないかな。(甘いな)