二人の作家の

 全く確かなことでない。何も定かでないこととしても、ドストエフスキーとセリーヌ、及びセリーヌが列挙した紀元前、紀元後、近世の政治、世界を動かす権力者に関わる「ユダヤ人」と呼ばれる人種への嫌悪、その嫌悪への執着ぶりには、素通りできない何かを感じざるを得ない。
 表層だけでないものを見る目を持っていたはずのこの二人の作家が、それほどこだわっていたユダヤ人。しかも好い感情を持たずに。

 想像するしかないが、ドストエフスキーは神を信じていた。キリスト教、ロシア正教?を。
 セリーヌは、神を信じていなかった。「信じたいが」と言うに留まった。
 ロシアの文豪が、なぜユダヤ人を嫌っていたのか。「人類の敵」といわれたセリーヌも、なぜ。
 ここからが想像だ── キリスト教には「ユダ」という裏切者がいるらしい。あれは「ユダヤ」から来ているらしい。とすると、ユダヤ教を敵と見なし(敵がいた方が人は団結する)、キリスト教を世に蔓延らせるためのものだった…?

 セリーヌのユダヤ人批判には、宗教的な色がない。どこまでも実在する議員、幅を利かせる人物に対して、「彼らはユダヤ人だ」と証明する文書をもって糾弾している。
 カネ、金、というものが、どうにもそこには絡んでいる。モノ、物質、とも言える。それを第一とすることに、セリーヌが身をもって No!と叫んだ。その金、物品、ヒカリモノ第一とする世界を憂い、嘆いて。

 こう書いている自分はといえば、この二人の作家がウソをついているとは到底思えない。確かにそういう「ユダヤ人」、金銭にあくどく、人間の風上にもおけぬ、悪徳の、非情な商人のような人間がいた── それは事実だったろう。「人の不幸を心底から喜べる人間」「怨みつらみを絶やすことなく、代々受け継いで来た種族、人種」というものが存在するのも事実だろうと思う。が、どうしてもそれは「人種」に限るべきではないと思えて仕方ない。
 それでも「人種」、ユダヤ人という存在に異常な嫌悪のこだわりを続けた、この二人の作家を信じないわけにもいかない。

 |わし《・・》鼻の人だからって、差別区別なんか絶対にしたくない。ゲーンズブールだってブルーノ・ワルターだって自分は大好きだ。それなのに、大好きな作家セリーヌが、ドストエフスキーが、ユダヤ人を忌み嫌っている… 何ともいえない気持ちになる。
 ただただ思う、確かに思うのは、いかなる事情があろうと大量虐殺なんかまっぴら、言語道断の極みであるし、どんな理由理屈をつけようがそれは違うということだ。
 またどんな背景があろうと、時代であろうと、戦争は繰り返す。けっしてなくなることはない。それを起こし、儲ける人々が世を牛耳っているとしても。自分が自分に課したいのは、こうして繰り返す人類というものを、愛せるようになれたら、ということだ。