物は物に非ず?

 いつか聞いた。「メールが来るんだけど、まぁ返信するんだけど、この時間は何なんだろう、って思う」
 40ぐらいになった娘さんを持つお父さんから。
 そう言われるまで、特にメールについて何も考えていなかった。ただEメールというのは医者が連絡をし合う(たぶん大事なことを?)ものだった、とは聞いたことがある。送られたらすぐ返信可能なシステム。一般に普及して、ずいぶんセッカチな、忙しない世界に貢献した「文明の利器」の印象はあった。
 切手を貼り、便箋に書き、宛名を書いて投函する、その手間がない。さだまさしが「手紙は自分の時間を相手にプレゼントすること」といった言葉も、いよいよ希少になってきた。

 物の価値。20年ぐらい前か、ケータイ電話を変える際、ショップに使わなくなったケータイを持って行った。すると、中のデータが完全に消去される、悪用されない、という意味だったろう、万力のような器具でケータイ電話がグシャッと音を立て、目の前で処刑されるのを見た。カウンターの上で、長年愛用したケータイが。
  一緒にいた当時の恋人が小さな悲鳴をあげた…

 文通していた頃は、かなりの量の手紙があった。もう相手と没交渉、遠くなる、それでも手紙は残る。この処分(という言葉さえ残酷だ)にはひどい勇気が要る。破ってゴミなんかにしたくない。燃やすのも世知辛い世の中だ。どうしたろう… 23で結婚みたいなことをしたから、実家を離れ、親に処分してもらったことになったと思う。

「昔は田舎では親戚が集まらないと火葬できなくてね、死体が腐っていくんですよ、夏なんか。」と言ってた友人がいた。
 何か、いやだったろうけど、貴重な体験をされたようにも思う。
 妻が出産する際、自分も立ち会ったが… よく覚えてないが、たぶん生々しかったんだと思う。「生命は、生々しいもんだ」という言葉をのちに聞いたから、その影響もあるかもしれない。
 生命の始まりである生と終わりを告げる死。その間はどんなに着飾っても、始まりと終わりは、きっと生々しい── 目を背けたくなるほど生々しいかもしれない。

 そんな生々しさが、へんに綺麗に、見ないように出来上がっている社会、と言いたかったが、スマホが今も客の目の前で処刑されているとしたら、と想像すると断言ができなくなった。
 ただ「物」というものが、それに付随する想い出や愛着を、失っている… 「物」が使い捨てにしか、しかも「消す」、delete 、アップロード、そんな形でしか扱えなくなっている淋しさを感じる。
「捨てる」という勇気、行為さえ、その機会が失われていくような。
 断捨離という本によって捨てる勇気が持てたとしても、家にある母の日記、父の日記など、とてもじゃないが捨てられない。大事な人からもらったカセットテープも、再生装置がなくても捨てられない。どんなイイことが書かれていても、あの著者は品がないから(すみません)好きでない。

 こんなネットのコメントにしても、書いてくれる人はその人の時間を、この記事のためにさいてくれていると思う。この記事を書いたのは自分であり、コメントを書いてくれたのは相手だ。ところがそれは「物」ではない。のっぺりした、intel・ハイッテル、の画面である…
 もうアナログの流れが消されようとしている。思考の仕方も変わっていく。
 生産的に、有益に。しかも「自分にとって」を第一義として、「相手」は自己都合によって消されていく、そうし易いメカニックさにヒトが出来上がっていく…?
 何事にも+、-の両面があるにしても、一方に偏りすぎている…のは俺だな。
 しかし…。