シェディング?

 東京に行き、実家にいると、よく頭が痛くなる。
 今回、行く前に腰が少しおかしかったので、いつもの整体医に診てもらったのだが── 去年の八月以来ということで、一年に二回のペースで身体がメンテナンスを必要とするようだ── 「シェディングって、あるんですかね」と訊いてみた。
 というのも、この整体医が発行している新聞に「コロナワクチン接種、インフルエンザ予防接種を受けた方は、来院しないで下さい」との旨があるのを以前目にしていたから。
 接種後60日間は、来院禁止なのである。ついでに、柔軟剤を使って洗濯した服を着た人の来院もダメなのだ。(そんな気難しい整体医ではない。むしろ普通すぎる人である)

 自分は何の接種も受けていないし、衣類に柔軟剤も使っていない。で、いつものように「手当て」を受けながらお喋りをするのだが、「実家に行くと頭が痛くなるんです。兄はコロナのもインフルのもぜんぶ接種していて、そのせいなんでしょうか」と訊いてみた。「それは大問題ですね」と整体医。
 シェディングとは、何かの予防接種を受けた人の身体から毒素のようなものが出て、非接種者によろしくない影響を与えるものらしい。そんなこと言ったら世は接種者だらけ、非接種者は身の置き場もない… あまり信じていない(信じたくない)が、こうも毎回頭が痛くなると、そのせいにもしたくなってしまう。今も、あまり信じていない、影響があったとしてもそれに耐え得るものを自分に求めるが。

 まったく、密閉性の良い家やスーパーの店内、新幹線や飛行機の中… そんなこと気にしていては永遠に外に出られない。
 またついでに、「note」を始めたことも言ってみた。と、「ああ、noteにワクチンは身体に良くないことを書くと(その記事が読まれないように)圧力が掛かっていたみたいですね」
 うーん、そんなこと言われても自分は書きたいことを書くけれど… 某小説投稿サイトではコロナについての記事を書くこと自体が禁止になっていた。戦争について書くこともダメ、タブー、とされたのはグーグルで自分のブログが審査される時だったか。

 何かを書こうとする時、ふかく考えないように考えないように、何でもない文章を書くように、持って行かれるような空気感は、あるサイトには確かにある。
 しかしシェディングがホントにあろうがなかろうが、今年も東京には新幹線に乗って何回も行くだろうし、いろんな考えを持った人たちと同じ地上にいることに変わりはない。変な圧力がホントにあろうが何だろうが、無関係ではいられない。

 そう、整体医にちょっと申し訳ないと感じること── せっかく自分の身体を良くしてくれるのに、自分にあまり「生へ執着する意思」のようなものがないつもりであること。身体はむろん生きたがっているが、この身体にいる「私」は、生きたがる身体に対して、この身体が存在する「世界」に対して、拒まれているなぁ、自分には死は一つの望み、絶対的な望みのようなものだなぁ、と思わざるをえないところ。

 施術されながら、べつにお金なんかどうでもいいんですよ、と言えば、でも物々交換じゃ(この世界は)やって行けませんし、みたいに返答されると、「生きること」「生きて行くこと」が前提になっているんだなぁ、と思う。当然だと思う。
 ああ、自分は死を前提としているんだな、と思う。これも自分にとっては当然と思う。

 死にたいんだったらサッサと死ねば? と声がするが、自殺、自分から死を積極的に選びたくはない。やむなく死にたい。誰もがやむなく死んでいったように。やむない自分のために生き、やむない死のために死にたい。
 それまでは、家にいくらお金があるのか知らないが、節約して生活をするし、金銭がなくなって死ぬことになるのなら、それを快く受け入れられるよう、のぞんでいきたい。自分の運命(というのがあるとしたら)を確認して、願わくば喜んで死んでいきたい。ああ、よく生きた! と死んでいけたら、と、それが唯一、最後の最初でもある願い。── シェディングから、また変な方向へ話が行った。