しかしキルケゴールはこちらの「情」に入って来る。「頭」にではないことがよくわかる。こころ、精神、というところ、この手を動かす心、足を動かす心、気持ちの中に入って来る。人を見るこちらの目の中に入って来る。だから、これまで些細な事でイラついたり、腹の立つこと、文句を言いたくなるような事に対して、そういった感情をもつ自分に対して、「おい、それは違うだろ」という目を持たされた。
著作集15の「愛のわざ」。この人の書き方は感動的で、いやこちらが勝手に感動するわけだが、感動した後、そのままの勢いで読むことが躊躇われて、セリーヌの「リゴドン」を読んだりする。
感動して、うわっ、と思い、そのまま先を読めばいいのに。ちょっと逸れたくなる… 余韻、降ってきた雨、自分の土に浸透する時間? これは漱石を読んでいた時も、よくあった。そのまま読みたい、すごい、と感動するのだが、ちょっと一息入れたくなる… 読みたいのに。
ゲーテを読んだ時、読んでいる時に感じたものと、似ているところも感じた。「ファウスト」といえばゲーテの生涯をかけたような大作だ、心して読まなければ! そんな構えで、一字一句、見逃さず、しっかり理解しながら読もう── そんな態勢で読んでいた。でもそういう読み方で、あまり「入って来る」ことがなかった。キルケゴールにも、それが言える。40年間、ずっと気になっていたキルケゴールだ、しっかり読もう、一字一句見逃さず! ところが、一字一句にこだわればこだわるほど、熱心に、いや熱心とは違う、ふるい… 細かく、微に入り細に入り、理解、理解することを目的に、ほんとうに理解する、できるように読み進めると、つまづく… 内容につまづくというより文体(言語)につまづく時が多い、と思えることが少なくなかった。内容と言葉。内容が表されたのが文章だろう。だがその内容はキルケゴールの内面である。内面の中にほんとうがある、とすると、… 云いたいことを彼が云っている、それをこちらは目にして読んでいる、これは確かなことだけども。
言葉は不完全、といわれるけれど、それを前提に、それを信じていたら、何も信じられないことになる。キルケゴールはとにかく考える人だった、ああ考えるとはこういうことをいうんだなと、読んでいて確かに実感する。考える、考えること、まさに泉、湧き水、枯渇しない… そう、考えること、これはほんとうに!
ロマンチズム、理想主義、そんなところに行きかねない危険も読んでいて感じた。
少し話を逸らすと、かの「アンパンマン」の作者、やなせたかしは「夢、正義、愛、といったものに、フン、そんなもの甘ったるい理想にすぎないじゃないか」という冷めた声に対し、「いや、その中にこそ、ほんとうのものがあるんだ」とする人だったという。人間のほんとうの生き方、というものを、自分の体験から(その体験はもちろん心からの体験だったろう)確固として持っていた…
書く、何かを表現すること自体、自分にとっての理想の実現である。それはもちろん完全に形と成り得ない… きっと完全完璧たりえない。
キルケゴールの読み方。彼は、とにかく考えた。その考えをこちらは追っていく。ついて行けない、わからない、とする箇所もある。甘ったるい理想だ(それは実は厳しいのだが)、実践不可能! と思える描写もある。でも、だから考えることができる… そして我慢強く読んでいれば、必ずそれが自分の生活に生きてくる── 精神、心、気持ち、ここが生活を、自分の手足、生活を立たせるものだから。ここから、回って行く、始まるものだから。
お金? それを得よう、それなくして生活は成り立たない? そう信じるも信じないも、でどころは同じだ、「信じる信じない以前のこと」? その「以前」より前のこと、その「以前」を立たせるもののことを言っているんだよ。
「愛のわざ」は「瞬間」「おそれおののき」より、ついて行くのが険しかった。でもこれは、何回か読み返して、ものにできるはずだと思う。読んでいる時は全力のつもりだ、「また後で読めば」と先延ばしすることにすがっていないつもりだ。
ああ、こういうことを云おうとしているんだ、そして実際そう云っているんだ。そうして実感する、入って来て、自分の中に入って来て、自分の生活の中で生かされる… 生活をする、生活を動かすのは、この手足、手足を動かすのは自己の精神、であるからだ…
想像か? 入って来るのは。上等だ、それをまかなって余りある、実感がある!